組織
廣惠肇碧山亭(シンガポール)
- 廣惠肇碧山亭
シンガポールの広州・恵州・肇慶の三府出身者のための墓地を営んできた団体。1870 年代に建てられ、1980 年代に土地が政府に徴用されたとされる(黎俊忻の文の記述)。
資料の記述
黎俊忻の文(2013)は、廣惠肇碧山亭は1870年代に広州・恵州・肇慶の三府出身の同郷者に墓地を与えるために建てられ、1980年代に政府に徴用される前は約324エーカーの土地を持っていたが、徴用後に碧山亭公所が得たのは火化した先人の遺骨を納める6エーカーだけで、今の建物はすべて移転後に建て直したものだと述べる。
この記述の範囲: シンガポールの廣惠肇碧山亭
- 新加坡廣惠肇碧山亭碑刻整理(厦門大学民間歴史文献研究中心の転載頁) 序文の第2段(「廣惠肇碧山亭原址」で始まる段)
同じ文は、他郷で死んだ者は故郷へ運ぶか近くに義山を設けて葬るもので、中国の国内ではその仕事を多く同郷会・公所が担ったのに対し、海外の華人は、清末に僑民の保護と二重国籍の容認が言われるまで出国すると帰郷を許されず、その後も少なからぬ者が帰郷しての埋葬を選んだが道が遠く、現地での埋葬の需要のほうが大きかった、と述べる。
この記述の範囲: 東南アジアの華人の墓地(筆者の整理)
- 新加坡廣惠肇碧山亭碑刻整理(厦門大学民間歴史文献研究中心の転載頁) 序文の第3段(「華人素來重視生死葬祭」で始まる段)
廣惠肇碧山亭の公式サイトに置かれた文書「The evolution of Peck San Theng」は、碧山亭の墓地はかつて324エーカーあり、その土地は今のビシャンの町の三分の二にあたると書く。文書によれば、政府は1973年に墓地を閉じるよう命じ、1979年に土地を取得した。十六の会館の者でつくる委員会が補償を交渉し、住宅開発庁が建て直しのために8エーカーの土地を割り当てた。文書は別の段で、1973年の閉鎖命令のあと長い交渉の末に、政府が8エーカーを99年の借地として割り当てたとも書く。黎俊忻の文(2013)は、碧山亭公所が得た土地を6エーカーと書いていて、広さが食い違う。
この記述の範囲: 碧山亭の公式サイトの文書(2018年の PDF)と、黎俊忻(2013)の序文
- The evolution of Peck San Theng 1 頁の冒頭、2 頁「The span of two centuries」の第四の50年、5 頁「Rebuild Peck San Theng」
- 新加坡廣惠肇碧山亭碑刻整理(厦門大学民間歴史文献研究中心の転載頁) 序文の第2段(碧山亭の原址を述べる段)
廣惠肇碧山亭の文書「The evolution of Peck San Theng」は、碧山亭で1921年に始まった萬緣勝會(文書は英語で Salvation Ritual と呼ぶ大きな法会)は、おおむね五年に一度開かれるとする。日本の占領下の1943年には、戦争と日本軍の粛清(文書の英語では Operation Sook Ching)で亡くなった五万人の華人のために、1978年には、ジュロン造船所でタンカーのスパイロス号が爆発した事故の犠牲者七十六人のために開かれた、と書く。文書はまた、墓地が1916年と1948年に、生前の貧富によらず亡くなった順に葬る埋葬のしくみを取り入れたとも書く。
この記述の範囲: 碧山亭の公式サイトの文書(2018年の PDF)
- The evolution of Peck San Theng 4 頁「Salvation ritual」、5 頁「Model burial system」