組織
四明公所
上海の寧波府出身者の同郷組織。義塚・殯舎を設け、同郷者の棺を寧波へ送る運棺を行った(帆刈浩之 1994 の記述)。
資料の記述
帆刈浩之(1994)によれば、上海の四明公所は、1797年(嘉慶二年)に寧波府の六県の人々が、個人や小団体の力では不可能だった同郷者の遺体の祖先の地への埋葬を、職業の別なく結集して果たそうとしたことに始まり、寄付で義塚・殯舎を設け、施棺・賖材や棺を故郷へ送る者への援助を行った
この記述の範囲: 上海の寧波人
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁5(729)下段 末尾〜頁6(730)上段 第1段
帆刈浩之(1994)によれば、1882年(光緒八年)に四明公所は寧波の甬江北岸に棺の安置所「甬公所」を設け、上海で1年安置した棺を清明節と冬至にそこへ運び、さらに1年たっても親族が受け取りに来なければ義山に葬ることにした
この記述の範囲: 上海→寧波の運棺
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁7(731)下段「二 上海から寧波へ」第1段
帆刈浩之(1994)が引く1905年の四明公所の章程では、上海の南廠での棺の安置は1年限りで、入れる棺は一具4元を納め、期限後も受け取りが無ければ寧波の甬公所へ移し、さらに1年で義山に移して葬るとされた
この記述の範囲: 上海の四明公所
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁8(732)上段 第3段〜下段 第2段(章程の条)
帆刈浩之(1994)が引く1905年の章程では、貧困で上海の殯舎の棺を受け取れない親族は、清明・冬至の前後に切符を持参して原籍と住所を報告すれば、鴨屁股船で(原籍地の)埠頭まで棺を運んでもらえ、その者からは一文も取らないとされた。ただし運搬先が山里深い場合は輸送しないとされた
この記述の範囲: 上海の四明公所
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁8(732)下段 末条〜頁9(733)上段 第1段
帆刈浩之(1994)は、20世紀初頭の上海在住の寧波人を約10万人とする見積もりと、死亡率2%という自身の推定から年約2000人が死んだとし、1901年ごろ年1200〜1300具の棺が寧波へ送還されていたというので、死者の6割以上が四明公所の運棺の恩恵を受けていたことになると述べる
この記述の範囲: 上海の寧波人
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁9(733)下段 第1段
帆刈浩之(1994)は、四明公所の殯舎での1年の保管代と上海から寧波までの運棺代はそれぞれ4元で、当時の労働者や苦力の月収は4〜6元だったとし、下層の労働者にとって安くはないが払えない額ではなかったと見る
この記述の範囲: 清末上海の四明公所
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁9(733)下段 第2段〜頁10(734)上段 第1段
帆刈浩之(1994)は、1907 年(光緒三十三年)、棺を預けたまま受け取りに来ない者が後を絶たないため、経済力の無い者は四明公所に原籍と住所を届ければ本人に代わって棺を送還し、自分で運ぶ者には補助金として2元を出すと決められた、と述べる
この記述の範囲: 四明公所(上海の寧波の同郷団体)の運棺、1907 年の取り決め。論文の第三節「外埠から上海へ」の中の記述で、どこの殯舎の棺か、誰が決めたかは明記されない
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁11(735)下段 末段〜頁12(736)上段 冒頭
四明公所は、1911年に寧波旅滬同郷会ができて力を弱めたのちも、他郷で死んだ同郷者とその遺族を助ける慈善を続け、1954年に終わったとする記事が2つある。上海社会科学院の頁(2003)は「1954年に清理が終わるまで」と書き、公益時報(2024)は「1954年に停辦した」と書く。
この記述の範囲: 上海の四明公所
- 四明公所的厝柩问题 「一、四明公所与“宁波帮”乡情」の末段
- 上海宁波帮的“四明公所” 本文の最終段(「据《档案记忆》」とある段)