儀礼・実践
招魂葬
遺体が見つからない事故死・溺死の者に、魂を招いて行う葬り方(桃園の生命礼儀の頁による)。
資料の記述
桃園の生命礼儀の頁は、事故で死んで遺体が見つからない者(多くは溺死や事故)には招魂葬を行うとし、道士が現場で、顔を描き衣を着せた草人形を竹竿の先に掛け、白い鶏を吊るして魂を引き、鶏が鳴いて筶で聖筶が出れば魂が戻ったとする(竿がひとりでに揺れるとも伝える)。草人形は法事の後に霊厝と焼くか、木の箱に入れて葬り墓を立てる。昔は死者の名を書いた銀の札に指の血を点じて金斗に納めた、とも記す。
この記述の範囲: 台湾・桃園の行政の頁の解説(頁は各地で習俗が違うので参考に留めるとする)
- 喪禮俗稱解說 頁「喪禮俗稱解說」の見出し「招魂葬」
『晉書』卷五十九の東海孝獻王越の伝によれば、越の死後、妃の裴氏は戦乱の中で連れ去られて売られ、東晋の太興年間に江を渡ってから、越を招魂葬にしようとした。元帝が役人に議させると、博士の傅純は、墓は体を納めて凶の礼で仕える所、廟はたましいを安んじて吉の礼で奉る所で、墓で祭らないのはたましいのいる所ではないからだとし、体とたましいの別を乱して墓と廟の宜しきを取り違えることほど礼に背くことは無いと述べ、元帝は詔で許さなかった。裴妃は詔に従わず、越を広陵に葬った。
この記述の範囲: 『晉書』卷五十九「東海孝獻王越」の伝の末尾近く
- 晉書 卷五十九 列傳第二十九 卷五十九「東海孝獻王越」の伝、越の死後を述べる段
『通典』卷一百三は「招魂葬議」の項を立て、東晋から南朝宋までの議論を集める。東晋の元帝の建武二年(318年)に袁瑰が、戦乱で死んだ曹馥の孫が屍を葬れずに招魂して葬ったことを挙げて、招魂葬を禁じるよう上表したのを初めに、干寶・孔衍・張憑・江淵らの、礼の書に招魂葬の定めは無く、葬るのは屍を納めるためで魂のためではないとして退ける議を並べる。一方で、招魂葬を認めてよいとする李瑋や公沙歆の論も載せる。
この記述の範囲: 『通典』卷一百三「招魂葬議」の項の本文
- 通典 卷一百三 禮六十三 凶禮二十五 卷一百三「招魂葬議」の項