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旅の死者を故郷へ帰す — 死者の宿、背負う運び方、鈴と銅鑼、墨の線

下書き 公開 ・更新

城壁の上の大工三人が見下ろす。地面の四角い墨線の中に棺があり、外の僵屍は棺に戻れず歩き回る。
記事の記述をもとにした想像図。慈溪の僵屍の話(『右臺仙館筆記』巻六)から。(絵: PurpleHeron)

この記事の問いと、今の答え

問い: 趕屍(かんし)の話では、旅先で亡くなった人が、術で歩かされて故郷へ帰ります。一行は死者専用の宿に泊まり、先頭の者が鈴や銅鑼を鳴らして人をよけさせる、と今ではよく語られます。映画では、墨を含ませた糸(墨の線)がキョンシーを防ぐ道具になりました。では、旅先で亡くなった人を故郷へ帰すことは、記録の上ではどう行われていたのでしょうか。死者を泊める宿、遺体や骨を背負って運ぶこと、鈴や銅鑼の音、屍を防ぐ墨の線は、それぞれどこまで古い記録にあるのでしょうか。

今の答え:

  • 帰すのは重い負担でした。柩(ひつぎ)を故郷へ送るには時間とお金がかかり、力のある一族でなければ難しかった、と研究は述べます1。
  • 死者専用の宿(「死屍客店」)は、今回調べた範囲では、2007 年の転載記事より前の記述は見つかりませんでした2。清の末の記録では、泊まるのは普通の宿で、主人が別の部屋を用意します3。
  • 背負って帰すことは、古い記録にたくさんあります。宋の時代の湘西のあたりの記録に「一人が屍を背負う」葬り方があり4、明と清の歴史書は、親の骨を背負って故郷へ帰った人を孝行の手本として書きます5。
  • 音: 清の末と民国の趕屍の記録には、鈴も銅鑼も出てきません67。今回調べた趕屍の資料で鈴が出てくる最も早い例は、施蟄存が 1937 年に聞いた話を約五十年後に書いた随筆で8、「陰鑼」(小さな銅鑼)は 2007 年の記事が今のところ最も古い例です9。ただし、ふつうの葬列では嗩吶(チャルメラ)と銅鑼・太鼓が鳴り10、泉州の南では道士が鈴を振って棺の前を歩きました11。
  • 墨の線が屍を防ぐ話は、映画より前、清の末の随筆にあります12。

帰すことの重さ

中国では、他郷で亡くなった人の柩を故郷へ送る「運棺」が伝統的な習わしでした。けれども多くの時間と経済力が要るため、有力な官僚や豊かな商人を一族に持つ家でなければ難しかった、と帆刈浩之の研究は述べます1。

  • 棺をかつぐのは専門の人夫でした。江南では清の康熙・乾隆のころから、県が人夫の不正を禁じる命令を出していた、と研究は書きます。蘇州では、人夫が大勢でやって来て高い賃金を求めたため、知県が、運ぶ人数と賃金の上限を決める告示を出しました13。
  • 清の末の上海で、寧波の出身者の会館(四明公所)は、柩を 1 年預かる代金と寧波まで運ぶ代金を、それぞれ 4 元にしていました。研究によれば、当時の労働者の月収は 4〜6 元でした。安くはないが払えない額ではなかった、と研究は見ています14。預かった柩は、清明節と冬至にまとめて寧波へ運ばれました15。

道中の宿

今の記事が語る「死屍客店」

2007 年に中国のニュースサイトに転載された記事は、湘西の趕屍の道筋には、死者と術者だけが泊まる「死尸客店」があったと書きます。表の門は一年中開けたままで、左右の門板の裏が遺体の休む場所だった、というのです2。筆者の名前はなく、その宿を見た、あるいは泊まったという人も出てきません。同じ記事は、趕屍が湘西でしか成り立たない理由の一つ目に、この宿を挙げています16。記事の前書きには、台湾の電子報からの転載だと書かれています17。

人類学者の趙玉燕の論文(2011 年)は、この宿の話を人々の言い伝えとして紹介し、観光の宣伝の中で語られる湘西の「神秘文化」の例として扱っています18。

古い記録の宿

  • 清の末。『清稗類鈔』の「送尸術」では、夕暮れに一行が宿に入ると、主人はひと目で分かって別の部屋を用意し、遺体は戸の脇に立てておきます3。「このような一行は道に絶えないので、土地の宿は専用の部屋をいつも備えている」という一文もありますが、これは本文ではなく、小さな字の注として置かれています19。
  • 1937 年に聞いた話。施蟄存の随筆に出てくる商人の話では、一行は夜更けに歩き、夜が明けそうになると土地の術者(祝由科)の家に身を寄せます。宿屋に泊まる話は出てきません。遺体は門の裏にもたせかけて立たせ、寝かせると術が破れる、とされます20。この随筆は、1937 年の出来事を約五十年後に書いたものです21。

柩は門に入れない

術で歩く遺体ではなく、ふつうの柩の一行はどうだったのでしょうか。

  • 清の学者の注(張生洲の説)は、他郷で亡くなった人の柩が帰ってきても門に入れない習いが世にあると書き、古い礼に反すると批判します22。さらに、柩を城に入れることを禁じる令があるため、家に帰して弔いたくてもできない、と嘆きます23。
  • 清の皇帝の記録には、湖北で病死した高官の柩は特別に都の城内に入れることを許し、同じ日に亡くなった随員の柩は城に入れない、と定めた命令があります24。
  • 海の船は柩を載せるのを嫌った、という話もあります25。
  • 一方で、明の小説や清の逸話では、柩を運ぶ一行が普通の宿に泊まっています2627。宿が柩を断ったという記述は、今回は見つかりませんでした。

身分の高い人の柩を故郷へ帰すときの作法も記録にあります。ある修士論文は、日本の統治期に台湾の慣習をまとめた『台灣私法』を引いています。その引くところによると、任地で亡くなった役人の柩を運ぶ道中では、泊まるたびに布の位牌(魂帛)と、名と官職を書いた旗(銘旌)を柩の前に置き、供え物をしました28。墓が遠ければ、宿るたびに小さな祭壇(靈座)を設けました29。家に着く前日には使いを先に出し、家族は十里の外に幕を張って待ちました30。

背負って帰す

宋の時代の湘西のあたり

南宋の朱輔の『溪蠻叢笑』は、五溪(今の湘西のあたり、辰州の境)の暮らしを書いた本です31。ここに、隣り合う二つの条(項目)があります。

  • 背籠: この地では肩で荷を担がず、木で半分の枷のような形を作って首をはさみ、帯を額に掛けて背負う。これを背籠と呼ぶ32。
  • 葬堂: 人が死ぬと一人が屍を背負い、矢を射て、落ちた所を墓穴にする4。豊かな家は後に骨を掘り出して小さな箱に移し33、崖の小屋に置くか大木に掛けて、朽ちるに任せる34。

ただし『溪蠻叢笑』は、背籠を死者に使うとは書いていません。二つの条は隣り合っているだけです。

骨を背負う孝行

『明史』の孝義伝は、孝行の型の一つとして「負骨還鄉」(骨を背負って郷里へ帰る)を挙げます5。たとえば崔敏は、元の末の乱で離ればなれになった父の仮の墓を探し当て、遺骸を背負って帰りました35。顧琇は、母の骨を背負って数千里を行き、眠るときは骨を梁に吊るし、川を渡るときは頭の上に載せたといいます36。『清史稿』にも、同じような伝記が続きます。背負うだけでなく、父と兄の遺骸を箱に納めて天秤棒で担いで帰った兄弟もいます37。

台湾と広東の客家には、移り住む途中で祖先の骨を背負って運び、落ち着いた先で葬り直した、という伝えがあります3839。

2004 年の出来事

2005 年 1 月の南方周末の調査報道は、湖南の 61 歳の男性の出来事を伝えます。男性は福建へ出稼ぎに出ていて、病死した同郷の仲間の遺体を背負って故郷へ帰ろうとし、広州の駅で警察に止められた、といいます40。一行は遺体を布団でくるみ、酔った人に見せかけていました41。男性は「連れて出た者は連れて帰る」という考えで背負ったと語り、郷里の村人もその行いを理解していた、と報道は書きます42。遺体は広州で火葬され、息子が骨の箱を胸の前の鞄に入れて、列車で郷里へ帰りました43。

音: 鈴と銅鑼

ふつうの葬列の音

明と清の喪葬(弔いと埋葬)を広く比べた人類学者ワトソンは、嗩吶の笛の音と、銅鑼・太鼓を打つ音の二つが、弔いの中心になる音だったらしいと述べます。とくに遺体を運び出すときに、この音が鳴らされました10。湘西の苗族の葬送でも、棺を出すときに銅鑼と太鼓を鳴らし、道を開いて紙の銭(買路錢)をまく、と今の研究は書きます44。台湾の宜蘭の葬列の説明には、鈴を振る役は出てきません45。

道士が鈴を振る土地

福建の泉州の南では、葬式で棺を運び出すとき(出棺)に道士を呼んで、死者の魂を導く「引魂」をしてもらいます。道士は法鈴を振りながら棺の前を歩きます。埋葬の後は、魂を乗せた小さな輿(魂轎)の前を鈴を振りながら歩き、魂を家へ連れ帰ります11。道士が振る柄つきの鈴(帝鐘)は、道教の儀礼で神を招き、邪を払う道具だと説明されます46。

趕屍の話の中の音

いつの資料か 何が鳴るか 役
清の末『清稗類鈔』 鳴らす道具の記述は無い(出てくるのは符水の碗)6 ―
沈從文「沅陵的人」(1930 年代の話) 鳴らす道具の記述は無い(出てくるのは一碗の水)7 ―
施蟄存の随筆(1937 年に聞いた話、約五十年後に書く) 攝魂鈴47 一つの鈴が、死者を歩かせることと、行き合う人をよけさせることの両方を担う8
2007 年の転載記事 小さな陰鑼、攝魂鈴 人をよけさせ、犬をしまわせる音が、同じ記事の中でも段落によって、鈴だったり銅鑼だったりする948
2014 年の英語の雑誌記事 鈴と銅鑼 鈴は魂を導き、銅鑼は人に知らせる、と役を分ける49
2024 年の記事 小さな銅鑼と攝魂鈴 人をよけさせ、犬をしまわせる50
清の末の碗と二人の術者、1937年に聞いた額の符と攝魂鈴、2007年の記事の死屍客店と陰鑼と犬への合図、2014年の記事の鈴と銅鑼の役の分け方を並べた年表。
今回読んだ資料で各細部が最も早く現れる時点。風習の起源や実在を示す年表ではない。1937 年は話を聞いた年で、書かれたのは約五十年後。(絵: PurpleHeron)

「攝魂鈴」という名は、清の小説『薛丁山征西』に、振ると相手の魂を奪う宝として出てきます51。清の小説『趙太祖三下南唐』には、打ち鳴らすと敵の将が馬から落ちて気を失う「落魂鑼」という宝の銅鑼も出てきます52。どちらも小説の中の道具で、葬送の道具ではありません。

墨の線

清の末の随筆

大工が木材に線を引く墨壺の糸(墨線)が、屍や怪を防ぐ話は、清の末の随筆にあります。

  • 外から入れない。俞樾の『右臺仙館筆記』巻六によると、慈溪の西門の外に、夜に棺から出て人を害する僵屍がいました。僵屍が遠くへ去った隙に、大工たちは棺の四方に墨線を弾いておきました。戻った僵屍は線の跡を見て棺に入れず、うろうろしました12。城壁の上の人に気づいた僵屍が跳び上がろうとすると、大工たちは壁にも墨線を弾きました。僵屍は上がれず、夜明けに倒れたので焼いた、と書かれています53。
  • 中から出さない。同じ巻の別の話では、柩から夜ごと出てくる女を、柩の上に縦横に墨線を弾いて出られなくしています54。許奉恩の『里乘』にも、大工が棺の蓋の真ん中に墨線を三度弾いて怪を絶った話があります55。この二つの話の本文では、怪は「僵屍」と呼ばれていません。
左は棺の蓋に縦横の墨線があり、矢印が棺内で止まる。右は棺の周囲の地面に四角い墨線があり、外から来る矢印が線の手前で止まる。
記事で読んだ二つの墨線の話の模式図。線の位置と、移動を止める向きを示す。(絵: PurpleHeron)

俞樾は、なぜ鬼が墨線だけを恐れるのかを説明しています。秤(はかり)や、円や直角を描く定規(規矩)といったほかの道具では邪を払えないのに、墨線だけが効く。それは「邪は正に勝てない」からで、鬼は墨線のまっすぐさを「正しさ」として恐れるのだ、と言うのです56。『里乘』の評も、左官や石工、大工の道具は怪を鎮められる、と伝えています57。

「映画の影響」という説明

台湾の公的な文化資料のサイトは、墨壺に「邪を避ける」という印象がついたのは、香港のキョンシー映画の影響だと書きます58。上の随筆は、それより前に書かれています。

読むときの三つの注意

  • 言い伝えと記録を分ける。「死屍客店」も、鈴と銅鑼の役の分け方も、今回見つかった最も古い資料は、それぞれ 2007 年と 2014 年の記事でした249。どちらも、見た人の証言ではありません。
  • 歩く遺体と、運ばれる柩を分ける。術で歩く遺体の話と、柩や骨を運ぶ実際の帰葬の記録は、別の資料群です。宿の決まりも、音も、同じとは限りません。
  • 語られた年と書かれた年を分ける。施蟄存の随筆の鈴は、1937 年に聞いた話ですが、書かれたのは約五十年後です21。映画『霊幻道士』(1985 年)より後かもしれません。

研究所による整理・解釈

研究所の整理

この節は、上の記述をもとにした研究所の読みです。資料の記述そのものではありません。

  • 今回読んだ中では、新しい資料ほど趕屍の話の細部が多い。宿・札・音について比べると、清の末の『清稗類鈔』に記されているのは、二人の術者と碗の水と、普通の宿の別室です。1937 年に聞いた話には額の符と鈴が出てきます。死者専用の宿、陰鑼、犬をしまわせる合図、術者の三十六の技は、今回確かめた範囲では 2007 年以降の記事に出てきます。これらの細部がいつ話に加わったのかは分かりません。ただ、今回見つかった最も早い例の多くは、映画で趕屍のイメージが広まった後に書かれた文章です。
  • 趕屍の話の細部には、実際の葬送の記録と似たものがある。その細部は、何もないところから作られたわけではなさそうです。葬列で銅鑼を鳴らすこと、道中で宿るたびに祭壇を設けること、家に着く前に知らせを出すこと、骨を背負って帰ることは、どれも記録にある実際の葬送の作法です。趕屍の話は、こうした帰葬の作法を「遺体が自分で歩く」という一点で組み替えた話として読むこともできます。ただし、これらの作法が本当に趕屍の話に取り入れられたのかどうかは、まだ確かめられていません。
  • 墨の線は、映画より前から「邪を防ぐ線」として書かれていた。清の末の随筆には、大工の墨線が屍を防ぐ話と、その理由(邪は正に勝てない)がすでにあります。映画の作り手がこうした話を知っていたのかどうかは分かりません。それでも、墨線で怪を防ぐ話が映画より前にあることは記録で確かめられるので、「避邪の印象は映画がつけた」とだけ説明するのでは足りません。一方で、今の人々が墨壺に抱く印象に映画がどれほど影響したかは、この古い記録だけでは判断できません。

確かな範囲と、まだ分からないこと

確かめたこと: 上の記述は、注に示した原文の該当箇所と照らして確かめました。維基文庫(ウィキソース)の古典は、翻刻(原文の文字を写し取ったもの)で字を確かめましたが、刊本の影印(写真版)とは照らしていません。論文や記事が引く古い本は、本文で「〜が引く」と書き分けています。

まだ分からないこと

  • 「死屍客店」を記録した一次資料(地方誌・調査・証言)はあるか。今回は見つかりませんでした未解決の問い
  • 遺体や骨を背負うための道具(背負い枠・背負い籠)を、死者に使ったと書いた民俗資料はあるか未解決の問い
  • 「陰鑼」の語は 2007 年より前に使われていたか。趕屍の鈴と銅鑼の役を分ける話はどこまで遡れるか
  • 映画の作り手が、墨線の話をどこから取り入れたか

次に読む: 趕屍(かんし)の記録を読む/キョンシーとは何か――文献と映画から読み直す

出典

  • 帆刈浩之「清末上海四明公所の『運棺ネットワーク』の形成」『社会経済史学』59 巻 6 号(1994 年)
  • 華琛(James L. Watson)「中國喪葬儀式的結構」(香港科技大學 華南研究)
  • 萌典(教育部《重編國語辭典修訂本》)「買路錢」ほか
  • 林清泉「事死如事生~漫談宜蘭地區的喪葬儀式」蘭陽博物館 電子報
  • 『台灣殯葬儀式之時空演變』(中國文化大學 修士論文)が引く『台灣私法』
  • 「台湾报刊图解湘西“赶尸”真相」福州新闻网、2007-04-11(中华网より)
  • 「走遍中国:揭开湘西赶尸之迷」福州新闻网、2007-05-22
  • 赵玉燕「民族旅游开发背景下的信仰文化再生产」湖南社会科学網、2011
  • 施蟄存「祝由科的巫術」ウェブの再録
  • 沈从文「沅陵的人」ウェブの再録
  • 徐珂『清稗類鈔』方伎類「送尸術」、義俠類「海霞還所盜物」、義俠類二「高螺舟載參將柩返國」。維基文庫の翻刻
  • 顧炎武(撰)・黃汝成(集釋)『日知錄集釋』巻十五。維基文庫の翻刻
  • 『仁宗睿皇帝實錄』巻二百八十九。維基文庫の翻刻
  • 凌濛初『二刻拍案驚奇』第二十一巻。維基文庫の翻刻
  • 朱輔『溪蠻叢笑』(四庫全書本、説郛所収本)。維基文庫の翻刻
  • 『明史』巻二百九十六 孝義一、『清史稿』巻四百九十八 孝義二。維基文庫の翻刻
  • 臺灣客庄文化數位典藏「骨灰罈(金斗)」普查記録
  • 「客家人“二次葬”习俗」河源文明网、2021
  • 张立・朝格图「民工千里背尸返乡调查」南方周末、2005-01-13(新浪の転載)
  • 「泉南道士的丧事功果法事活动」泉州の文史資料(閩南文化生態保護区のサイト)
  • 謝宗榮による道教の法器の概説
  • Weijing Zhu, "The Real Walking Dead" The World of Chinese, 2014-05
  • 「湘西赶尸,口诀竟是文天祥的《正气歌》」腾讯新闻「文史宴」、2024-11-04
  • 王泳兴「湘西苗族传统殡葬文化的现代审视」『吉首大学学报』2021 年
  • 『薛丁山征西』第三十七回、『趙太祖三下南唐』第四回。維基文庫の翻刻
  • 俞樾『右臺仙館筆記』巻六、許奉恩『里乘』巻三。維基文庫の翻刻
  • 「三義木雕工具之魯班五寶02墨斗」國家文化記憶庫

注(出典と、原文の該当箇所)

各注の頭の色の付いた印は、その記述が「資料の記述」「作品内の設定」「研究所の整理」のどれにあたるかを示します。原文との照らし合わせがどこまで済んだかは、印の無い注ではどれも「人が訳と説明を確かめた段階(人による原文の照合はまだ)」です。それと違う段階の注にだけ、その段階を示す印を付けています。

  1. 資料の記述
  2. 資料の記述
  3. 資料の記述
  4. 資料の記述
  5. 資料の記述
  6. 資料の記述
  7. 資料の記述
    • 沅陵的人 「对于赶尸传说呢,说来实在动人」で始まる段
  8. 資料の記述
    • 祝由科的巫術 四川客商の話(「湘西這一帶」で始まるかぎ括弧の中)
  9. 資料の記述
  10. 資料の記述
  11. 資料の記述
  12. 資料の記述
    • 右臺仙館筆記/卷06 右臺仙館筆記 卷六、維基文庫の編集用の本文で 43 行目の段落(「木工石工所用之墨線」で始まる段)の後半
  13. 資料の記述
  14. 資料の記述
  15. 資料の記述
  16. 資料の記述
  17. 資料の記述
  18. 資料の記述
  19. 資料の記述
  20. 資料の記述
    • 祝由科的巫術 『祝由科的巫術』、四川客商の説明の段(「湘西這一帶」で始まる引用)
  21. 資料の記述
    • 祝由科的巫術 「祝由科的巫術」書き出しの段落(朋友と閒談した場面)と結びの段落
  22. 資料の記述
  23. 資料の記述
  24. 資料の記述
  25. 資料の記述
  26. 資料の記述
  27. 資料の記述
  28. 資料の記述
  29. 資料の記述
  30. 資料の記述
  31. 資料の記述
  32. 資料の記述
  33. 資料の記述
  34. 資料の記述
  35. 資料の記述
  36. 資料の記述
  37. 資料の記述
  38. 資料の記述
  39. 資料の記述
  40. 資料の記述
  41. 資料の記述
  42. 資料の記述
  43. 資料の記述
  44. 資料の記述
  45. 資料の記述
  46. 資料の記述
  47. 資料の記述
    • 祝由科的巫術 同、四川客商の説明の段(辰州符の仕組みを語り始める一段)
  48. 資料の記述
  49. 資料の記述
  50. 資料の記述
  51. 資料の記述
  52. 資料の記述
  53. 資料の記述
    • 右臺仙館筆記/卷06 右臺仙館筆記 卷六、維基文庫の編集用の本文で 43 行目の段落(「木工石工所用之墨線」で始まる段)の結び(「俄見城上有人」以下)
  54. 資料の記述
    • 右臺仙館筆記/卷06 右臺仙館筆記 卷六、維基文庫の編集用の本文で 41 行目の段落の末尾(「金陵永福庵一老僧曰長齡」以下)
  55. 資料の記述
    • 里乘/03(卷三) 里乘 卷三「溧陽史仲皋言三事」、三つ目の話(「某處有厝柩」以下)
  56. 資料の記述
    • 右臺仙館筆記/卷06 右臺仙館筆記 卷六、維基文庫の編集用の本文で 43 行目の段落(「木工石工所用之墨線」で始まる段)の前半
  57. 資料の記述
  58. 資料の記述