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趕屍(かんし、赶尸)――死者を歩かせて故郷へ帰す話の記録を読む

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この記事の問いと、今の答え

問い: 湖南の西、湘西(しょうせい)には、旅先で死んだ人を術で歩かせて故郷へ連れ帰る「趕屍」(かんし、屍を追い立てる)という話が伝わっています。キョンシーの由来の一つとしてよく挙げられる話です。古い記録には、実際に何が書かれているのでしょうか。後の映画で知られた、跳ねる姿や額に貼られた札、鈴を鳴らす道士は、どこまで記録にあるのでしょうか。

今の答え: 民国の初めにまとめられ、清の時代の出来事を集めた『清稗類鈔』(せいはいるいしょう)では、この術は「送尸術」(そうしじゅつ、死体を送る術)と呼ばれています。術者は二人で、一人が前を歩き、もう一人が水の碗を持って後ろに続きます。遺体は二人の歩みに従って歩きます。この条には、跳ねる動きも、額の札も、鈴も書かれていません。額に符を貼り、鈴を振って死者を歩かせるという話は、作家の施蟄存(しちつぞん)が 1937 年に旅先で人から聞いた話として、随筆に書いています。ただし随筆はそれを「五十年前」のこととして書いていて、書かれたのは 1980 年代の後半ごろ、映画『霊幻道士』(1985 年)より後かもしれません。死者を運ぶのが夜か昼かは、記録どうしで食い違います。

清の時代の出来事を集めた本: 『清稗類鈔』の「送尸術」

夕暮れの山道を宿へ向かう三人。前の術者と後ろの術者の間を遺体が歩き、後ろの術者は水の碗を持つ。三人とも辮髪。
『清稗類鈔』の「送尸術」に書かれた、遺体と二人の術者の想像図。額の札・鈴・跳ねる動きは、この条には書かれていません。(絵: PurpleHeron)

『清稗類鈔』は、清の時代の出来事や風俗を分類して集めた本で、民国の初めに徐珂がまとめました。その「方伎類」(術の部)に「送尸術」という条(項目)があります1。「趕屍」「移屍」という語は、この条には出てきません1。この記事では、ウィキソース(維基文庫)で公開されている翻刻(原本の文字を写し取って起こした本文)を読みました。

どんな人のための術か。貴州で木を切って暮らす商人は、春の増水期に木を筏に組んで湖南の常徳あたりまで下って売り、帰りは陸路で故郷へ戻ります。その道中で仲間が病気で死んだとき、遺体を故郷まで送り届ける技として、この術が書かれています2。

  1. 二人で行う。術は必ず二人で行います。一人が前を歩いて導き、もう一人は、まじない(原文は「符呪」)をかけた水の入った碗を手に持って後ろに続きます。碗の水がこぼれなければ、遺体は倒れない、と書かれています3。
  2. 遺体の歩き方。遺体は、話せないことと、歩き方が生きた人とわずかに違うことのほかは、生きた人と変わりません。前の人が歩けば歩き、止まれば止まり、二人の歩みにだけ従います4。
  3. 宿で。夕暮れに宿へ入ると、宿の主人はひと目でこの一行と分かり、別の部屋を用意します。二人は寝床で眠り、遺体は戸の脇に立てておきます。湘の諺の「三人住店、兩人喫飯」(三人で泊まるが、食べるのは二人)はこのことだ、と書かれています5。
  4. 家に着く。着く前の夜、遺体は家族の夢に現れ、家族は棺と死装束を整えて待ちます。着くと遺体を棺の脇に立たせ、術者が碗の水を地に注ぐと遺体は倒れます。急いで棺に納めないと、死んでからの日数ぶんの腐れが一度に現れる、とされます6。
  5. 見た人。宣統元年(1909 年)の秋、六安の楊寬夫という人が、長沙の町の外でこの一行を実際に見た、と条の終わりに書かれています7。

同じ条には、もう一つ別の話が続きます。黔陽の出身の軍人、黄澤生(黄忠浩)が川邊(清の末に置かれた地で、のちの西康省のもと)に駐屯していたとき、陣の外で「死体が自分で歩いている」と騒ぎになりました。見に行くと、布の旗を持った人の後ろに遺体が一つ、ふらふらとついて歩いていました。術の中身は明かされず、夜は戸の脇に置けばよい、という返事でした。黄澤生が手下に調べさせると、たしかに死体だった、という話です8。

民国の文章が引く記録(孫引き)

新聞の記事が、民国のころの別の筆記を引いて、似た術を紹介しています。どれも、この研究所ではまだ元の本を読んでいません(孫引き)。

  • 『洞霊小志』(郭則沄)。澎湃新聞の記事(2021 年)が引くところでは、湘と黔の地に術者がいて、二、三体から四、五体の遺体を連れて行き、遺体の顔は紙で覆います。道でお経を読んだり、楽を奏でたりしている人がいれば、止めてもらってから通り(そうしないと術が破れる)、宿では遺体を戸の後ろに立てます。そして昼に行き、夜は止まる、と書かれているといいます9。『清稗類鈔』の「戸の脇」とは、置き場所が少し違います10。
  • 『平等閣筆記』(狄葆賢)。同じ記事によると、貴州の木材商人が湖南で客死したときの「送尸術」を、西洋の催眠術に近いものとして説明しています11。

施蟄存が 1937 年に聞いた、符と鈴で死者を歩かせる話

作家の施蟄存は、随筆「祝由科的巫術」の中で、1937 年に沅陵(げんりょう、湘西の町)の宿で同じ部屋になった四川の商人から聞いた話を書いています。この話では「趕屍」という語は使われず、術は「辰州符」(しんしゅうふ、辰州の符)という名で呼ばれます12。随筆は書き出しと結びで、これを「五十年前」に知った出来事として語っています。話を聞いたのが 1937 年の秋なので、随筆はその約五十年後に書かれたことになります。いつどこで発表されたかは、本文に書かれておらず、まだ分かっていません13。

  • 祝由科(しゅくゆうか。符と呪で病を治す術の流れで、下の節で詳しく見ます)の術者が、死者の額に符を貼り、呪を唱え、「攝魂鈴」(しょうこんれい、魂を捉える鈴)を振って、死者を歩かせて故郷まで送り届けます。術は深夜にしか行わず、道中で生きた人に見られると死者が倒れて術が破れる、とされます14。
  • 歩くものは、話の中で一度も「僵屍」「殭屍」と呼ばれず、ずっと「死人」と呼ばれます15。
  • 商人は、死人が歩くのを自分で見たことはない、と話したと書かれています。この土地では誰もがそういう話があると言うのだ、とも話しています16。

施蟄存は、後にこの話を知人たちに「本当にあるのか」と尋ねています。湘西の出身の作家、沈從文(しんじゅうぶん)は、湘西の人は皆それを否定しないから、かつて確かにあったのだろうと自分は信じる、と答えたといいます。物理学者の田渠と歴史学者の向達は、肯定も否定もしませんでした17。

術と道教の関係

この術の担い手は、道士だったのでしょうか。施蟄存の随筆は、祝由科(しゅくゆうか)を、古代の巫(ふ、神がかりをする術者)の流れをくむもの、と説明します。唐や宋より後には符と呪で病を治す医術の一科になったが、道教からは**「邪門」(正しくない教え)として退けられた**、とも書きます。ただし、道教の中にも符と呪で病を治す道士はいる、とも添えています18。祝由科は湘西の辰州(今の沅陵)で盛んだったので、その符を「辰州符」と呼び、清の時代の辰州には符を売る店があったと聞く、とも書いています(店の話は伝聞です)19。

今の研究も、湘西では「術を使う人」が一種類ではないことを示しています。康豹の論文は、湘西の宗教を、長いあいだに移り住んだ漢人の文化と、土地にもとからあった伝統とが混ざり合ったものとして捉えます20。論文では、湘西で儀礼を担う専門家を、次のように分けています21。

  • 道士: 男性。主に葬式の法事を受け持ち、漢語と古い書き言葉で儀礼を行う
  • 巴代扎(ばだいさ、客老司): 儀礼は道教から来ている。漢語や土地の方言で行う
  • 巴代雄(ばだいゆう、苗老司): 苗語で、口伝えを中心に行う。道教の影響は少なく、術を行うときは漢服を避ける

論文はこのほかに、老裟・巴代捏・仙娘(霊媒)も挙げています21。役割の分担について、湘西の習わしでは、個人や家族のための病治しや邪払いは巴代扎か巴代雄の仕事で、道士の受け持ちではない、と論文は述べます22。ただし、同じ論文の別の頁では、儀礼の型で見ると、道士も巴代雄も邪払いや清めの儀礼を行う、と整理しています23。二つの記述を合わせると、道士も邪払いや清めの儀礼は行うものの、個人や家族のための病治しや邪払いは道士の受け持ちではない、と読むのが近そうです。どこで線を引いているのかは、論文のこの二か所だけでは、はっきりしません。趕屍の術を「身につけるべき技」の一つに挙げる資料は、この巴代雄についてのものです24。

土地の専門家たち自身は、この分かれ方を一つの話で説明しています。太上老君(道教の神)が、できものだらけの物乞いに化けて、三人の弟子に「背負って川を渡してくれ」と頼みました。断った者が道士に、ためらった者が巴代扎に、素直に従った者が巴代雄になった、という話です25。これは研究者が現地で聞き取った由来の話で、歴史の記録ではありません。

新聞の記事は、沈從文自身が書いた文章として、辰州(今の沅陵)を過ぎると趕屍をする者がいて、運がよければ死体の一群が道を歩くのが見られる、という一節を引いています。二つの記事が同じ一節を引いていますが、どの作品のどの頁かは書かれておらず、研究所はまだ元の文章を見つけていません26未解決の問い。

現代の記事と研究が伝えること

  • 中国の文化紹介のサイト(2011 年の英語記事)は、死者を千里を越えて故郷へ運ぶ習わしを、僵屍の伝説の由来の一つとし、道士が死者を夜にだけ運び、見られると不吉なので鈴を鳴らして知らせた、と書きます27。同じ記事は、遺体を長い竹の竿で運ぶと竹のしなりで上下に揺れ、遠目には跳ねて進んでいるように見えた、とも書きます28。ただし、同じ記事には竹竿を使わない別の証言も並んでいます。二人が遺体を背負って運び、もう一人が提灯で先導した、というものです29。
  • 同じ記事は、趕屍の話は密輸の人たちが取締りを遠ざけるために作ったものだとする見方や30、関節をやわらかく保ち脚を縛って歩かせたのだとする見方も紹介しています31。1949 年の後、この仕事は廃れた、とも書きます32。
  • 研究では、康豹(ポール・カッツ)の論文(2020 年)は、湘西の苗族の儀礼の専門家「巴代雄」についての資料を紹介しています。その資料では、巴代雄が身につけるべきとされる技の一つに、趕屍の術が挙げられています24。馮藝超の論文は、趕屍の伝説のために僵屍は湖南のものと思われがちだが、『子不語』の僵屍の話は江蘇・浙江から雲南まで十余りの地にわたる、と書きます3334。
  • 趕屍が本当に行われていたかを確かめた研究は、今回の調べでは見つかっていません。

記録どうしを並べると

要素 『清稗類鈔』(民国の初めにまとめる) 『洞霊小志』(新聞の記事が引く) 施蟄存の随筆(1937 年に聞いた話、約五十年後に書く) 現代の記事(2011 年)
呼び名 送尸術1 ― 辰州符12 corpse walker(屍を運ぶ者)27
率いる者 二人(道士とは書かない)3 湘と黔の地の術に通じた者10 祝由科の術者14 道士27
遺体の動き 歩く。歩き方がわずかに違う4 呪をかけると歩く10 歩く14 竹竿のしなりで跳ねて見えた28
額 何も書かれていない 顔を紙で覆う9 符を貼る14 ―
鈴 書かれていない(まじないをかけた水の碗を持つ)3 ― 攝魂鈴14 鈴で知らせる27
昼と夜 夕暮れに宿へ入る5 昼に行き、夜は止まる9 深夜だけ14 夜だけ27

読むときの三つの注意

  • 跳ねない。『清稗類鈔』の遺体は歩きます。「跳ねて見えた」という説明は、現代の記事が、竹竿で運ぶ方法について書いたものです。同じ記事には、竹竿を使わない証言も並んでいます2829。
  • 道士とは限らない。『清稗類鈔』では、ただ「二人」です3。施蟄存の随筆では「祝由科」の術者、研究が紹介する資料では苗族の儀礼の専門家です1424。率いる者をはっきり「道士」と書くのは、今回読んだ中では現代の記事だけです27。
  • 湘西とは限らない。『清稗類鈔』の舞台は貴州と湖南のあいだの道で、見られた場所は長沙の町の外と、四川の西の陣です278。湘西の沅陵・辰州の名が出てくるのは、施蟄存が 1937 年に聞き、約五十年後に書いた話と、沈從文の文章として引かれる一節からです1226。

研究所による整理・解釈

研究所の整理

この節は、上の記述をもとにした研究所の読みです。資料の記述そのものではありません。

  • 今回読んだ資料では、術は「送尸術」(『清稗類鈔』)、「辰州符」(1937 年に聞いた話)、「趕屍」(今の記事や研究)と、別々の名で呼ばれています。これらの名がどうつながるのか、いつ「趕屍」の呼び名が広まったのかは、まだ分かりません未解決の問い。
  • 額の符と鈴は、『清稗類鈔』の条には書かれておらず、今回読んだ資料の中では、施蟄存の随筆がいちばん早い例です。話を聞いたのは 1937 年ですが、書いたのは約五十年後で、映画でキョンシーの姿が広く知られた後かもしれません。映画より前からこの二つが話の中にあったとは、まだ言えません。しかも、人づてに聞いた話をさらに伝えたもので、話した商人自身も見ていません。
  • 跳ねる動きは、今回読んだどの古い記録にもありません。「竹竿のしなりで跳ねて見えた」という説明は、跳ねるキョンシーを知っている今の目で、運び方を説明し直したものかもしれません。跳ねるキョンシーの姿が、映画より前のどの資料に見えるのかは、まだ確かめられていません。
  • 趕屍の話は、「キョンシーの由来」とよく言われますが、記録の中の遺体は人を襲わず、ただ故郷へ帰るために歩きます。害をなす死体の話(「尸變」など)とは、別の流れとして読むほうが、記録に合っています。

確かな範囲と、まだ分からないこと

確かめたこと: 『清稗類鈔』の「送尸術」の条は、ウィキソースの翻刻で、原文と照らして確かめました。施蟄存の随筆は、ボランティアが文字に起こしてウェブに載せた本文で確かめました(初めにどこで発表されたかは、まだ分かっていません)。

まだ分からないこと

  • 沈從文が趕屍について書いた一節が、どの作品のどの頁にあるか未解決の問い。自ら趕屍をしたと語る「闕五老」という人の話が、どの作品にあるか未解決の問い
  • 『洞霊小志』『平等閣筆記』の元の本の文未解決の問い
  • 1933 年の湘西の苗族の調査報告に、趕屍の記述があるか未解決の問い
  • 研究者が、趕屍と香港の殭屍映画のつながりを直接論じているか未解決の問い

次に読む: キョンシーとは何か――文献と映画から読み直す/『子不語』の「僵屍求食」を読む/『聊齋志異』の「尸變」を読む

出典

  • 徐珂『清稗類鈔』方伎類「送尸術」。維基文庫(ウィキソース中国語版)の翻刻 https://zh.wikisource.org/wiki/清稗類鈔/082 (2026-09-26 取得)
  • 施蟄存「祝由科的巫術」。ウェブの再録 https://millionbook.net/xd/s/shizhecun/szcw/099.htm (2026-09-26 取得)
  • 呼延云「叙诡笔记|民国初年,对"赶尸真相"的两种"新解"」澎湃新聞、2021-08-07
  • 「湖南赶尸是真实存在的么?」界面新聞(地球知识局)、2018-10-07
  • "A Mystery in Western Hunan: Walking Corpse" China Culture(en.chinaculture.org)、2011-12-05
  • 康豹(Paul R. Katz)著、陳亭佑譯「苗漢之間──湘西道教與儀式專家傳統初探」
  • 馮藝超「《子不語》正、續二書中僵屍故事初探」『東華漢學』第 6 期(2007 年)

注(出典と、原文の該当箇所)

各注の頭の色の付いた印は、その記述が「資料の記述」「作品内の設定」「研究所の整理」のどれにあたるかを示します。原文との照らし合わせがどこまで済んだかは、印の無い注ではどれも「人が訳と説明を確かめた段階(人による原文の照合はまだ)」です。それと違う段階の注にだけ、その段階を示す印を付けています。

  1. 資料の記述
  2. 資料の記述
  3. 資料の記述
  4. 資料の記述
  5. 資料の記述
  6. 資料の記述
  7. 資料の記述
  8. 資料の記述
  9. 資料の記述
  10. 資料の記述
  11. 資料の記述
  12. 資料の記述
    • 祝由科的巫術 『祝由科的巫術』、四川客商が語り始める場(著者が『你講的是什麼呀』と問う場面の直後)
  13. 資料の記述
    • 祝由科的巫術 「祝由科的巫術」書き出しの段落(朋友と閒談した場面)と結びの段落
  14. 資料の記述
    • 祝由科的巫術 同、四川客商の説明の段(辰州符の仕組みを語り始める一段)
  15. 資料の記述
  16. 資料の記述
  17. 資料の記述
  18. 資料の記述
    • 祝由科的巫術 「祝由科的巫術」祝由科の由来を述べる段落(張魯・寇謙之に触れる段落の続き)
  19. 資料の記述
    • 祝由科的巫術 「祝由科的巫術」松江の祝由科の思い出の段落の後、「一九三七年秋」で始まる段落の直前
  20. 資料の記述
  21. 資料の記述
  22. 資料の記述
  23. 資料の記述
  24. 資料の記述
  25. 資料の記述
  26. 資料の記述
  27. 資料の記述
  28. 資料の記述
  29. 資料の記述
  30. 資料の記述
  31. 資料の記述
  32. 資料の記述
  33. 資料の記述
  34. 資料の記述