儀礼・実践
寄柩(寄櫬)
- 寄柩
- 寄櫬
棺を葬るまで、あるいは故郷へ運ぶまで、寺や殯舎などに仮に預けておくこと(研究所が参照した資料の範囲)。
資料の記述
萌典は「寄柩」を、棺柩をしばらく預けておくことと説明する
寄柩(寄櫬)は重修臺郡各建築圖說に関わる。蔣元樞の「建設南壇義塚並殯舍圖說」は、台湾府には南北二つの壇があり、ともに棺を預ける場所で、風水にこだわって葬らない棺、貧しいか吉地を求めて葬らない土地の家の棺、他郷から来て死に柩を故郷へ運べない者や葬る人のいない者の棺が置かれていたとし、預ける舎は低く狭く壊れていて、時がたてば野ざらしを免れず損壊のおそれもあり、姓名も調べようがなくなっていたと記す
この記述の範囲: 清代の台湾府(南壇・北壇)
- 重修臺郡各建築圖說「建設南壇義塚並殯舍圖說」 「建設南壇義塚並殯舍圖說」本文(1 段)の冒頭
寄柩(寄櫬)は重修臺郡各建築圖說に関わる。同篇は、蔣元樞が竹溪寺の後ろの園地と竹囲を買い、園地を義塚にし、竹囲の中に棺を預ける舎(二進、左右の廂に各六間)を建てて僧を募って守らせ、棺を預けに来た者は姓名・郷貫・預けた年月を帳簿に記して調べられるようにしたと記す
この記述の範囲: 清代の台湾府(南壇)
- 重修臺郡各建築圖說「建設南壇義塚並殯舍圖說」 同篇本文の中ほど(「於是相度南門外竹溪寺後」から)
帰葬(歸櫬・運棺・原籍安葬)は寄柩(寄櫬)に関わる。同篇は、預けた棺のうち故郷へ帰したい者には自分で運ばせ、本当に運ぶ力の無い者には舗戸を定めて船に配して運ぶとし、姓名が分かり親族のいる棺で二年を過ぎたものには三か月の期限をつけ、力のある者には葬るよう促し、力の無い者は経費を出して義塚に埋めるとし、期限を過ぎれば罰があると記す
この記述の範囲: 清代の台湾府(南壇)
- 重修臺郡各建築圖說「建設南壇義塚並殯舍圖說」 同篇本文の中ほど(「其有欲歸故土者」から)
蔣元樞「建設南壇義塚並殯舍圖說」は、義塚の傍に化骨臺を設け、残骸を集めて火で焼いて「萬善同歸所」に置いた、と書く
この記述の範囲: 清代の台湾府(蔣元樞の在任期)。役人自身の記述
- 重修臺郡各建築圖說「建設南壇義塚並殯舍圖說」 本文、義塚の維持を述べた後の「復於義塚之傍」の文
上海市民政局のサイトに載る石红英の文(2020)は、1949年5月の解放のあと、人民政府が環境衛生のために、会館・山荘・丙舎・寄柩所・殯儀館・宗祠に置かれたままの棺と浮厝の片づけに取りかかったとし、1949年7月に市衛生局が《清除积柩第五步骤实施办法》を定め、翌年に補充の辦法を作ったと述べる。
この記述の範囲: 上海、1949〜1950年
- 上海殡仪馆的历史演变及文化意蕴 「三、(三)上海解放后殡仪馆治理的新发展」の第1段・第2段
同じ文は、1951年10月19日に市衛生局が嵩山・閘北・長寧などの区政府と、普善山荘・四明公所・浙紹永錫堂などの寄柩所、公安局を集めて会議を開き、公安局・民政局・衛生局などで積み残しの棺の片づけを督導する組を作ると決めたとし、1952年末までに郊外19区などで浮厝20万9708具を片づけ、土地約1千畝を空けたと述べる。
この記述の範囲: 上海、1951〜1952年
- 上海殡仪馆的历史演变及文化意蕴 「三、(三)」の第2段(「1951年10月19日」で始まる文)