儀礼・実践
帰葬(歸櫬・運棺・原籍安葬)
- 歸櫬
- 扶柩回籍
- 運棺
- 原籍安葬
他郷で死んだ者の柩や遺骨を故郷へ送って葬ること。清代の記録と、上海・香港などの同郷団体・善堂の運棺の研究がある(研究所が参照した資料の範囲)。
資料の記述
『清史稿』齊蘇勒傳は、河道総督齊蘇勒が雍正七年に病没したとき、帝が柩を帰す費用(歸櫬資)として銀三千両を賜ったと記す
この記述の範囲: 雍正期の河道総督(一例)
- 清史稿 卷310(列傳九十七 齊蘇勒ほか) 卷310 列傳九十七「齊蘇勒」の段(「七年春,疾甚」で始まる段)
『清史稿』列女傳は、浙江麗水の知県だった田緒宗が任地で没し、妻の張氏が倉庫と税の帳簿を後任に引き継いでから喪を持って帰郷したと記し、後に張氏自身が夫の没後に幼い子を連れて千里を柩とともに帰ったと語る
この記述の範囲: 順治九年の進士で浙江麗水知県だった田緒宗の家族(一例。在任の年は本文に無い)
- 清史稿 卷508(列傳二百九十五 列女一) 卷508 列傳二百九十五 列女一「田緒宗妻張」
『清稗類鈔』喪祭類「訃文」に載る旧式の男の訃文の書式には、ひとまず某地に仮に安置し、日を改めて柩を故郷へ運び葬ると告げる文句が入っている
- 清稗類鈔(喪祭類) 喪祭類「訃文」の「其舊式男訃文如下」の段
帆刈浩之(1994)は、他郷で死んだ者の柩を故郷へ送る「運棺」は中国の伝統的な習わしだが、多くの時間と経済力を要するため、有力な官僚や富裕な商人を一族に持つ宗族でなければ難しかったと述べる
この記述の範囲: 清末〜20世紀初頭の中国
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁3(727)下段 第1〜2段
帆刈浩之(1994)は、同郷ギルドのうち慈善として運棺を行ったものは少なく、漢口の江西人ギルド会館の門の上には「死在西江」と書かれた扁額が掛かっていたが、実際には遺体が故郷へ定期的に送られることは稀で、ほとんど漢口に葬られていたという、と述べる
この記述の範囲: 漢口の江西会館
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁3(727)下段 第2段(注7・8)
帆刈浩之(1994)は、中国では嫁入りの駕籠や葬儀の棺をかつぐのは専門の人夫(「扛抬人」「脚夫」)で、江南では康熙・乾隆年間にすでに県がその横領を禁じる命令を出しており、1801年(嘉慶六年)の上海でも人夫らが暴利をむさぼる弊害があったといわれるとする。蘇州の脚夫の例では、普通の家で棺一具を葬るまでに二、三十千文を要求されたとし、知県が、十里以内は棺一具の人夫を6人まで、賃金を一人120文までとするなどの告示を出したと述べる
この記述の範囲: 江南(蘇州・上海)
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁10(734)上段 第2段〜下段 第1段
帆刈浩之(1994)は、上海以外の都市の寧波人ギルドでは棺の送還は困難で制度化されておらず、親族が遺体を受け取りに行かなければ、その棺は異郷の地に永久に眠ることになったと述べる
この記述の範囲: 清末の上海以外の都市の寧波人ギルド
- 清末上海四明公所の「運棺ネットワーク」の形成:近代中国社会における同郷結合について 頁11(735)上段「三 外埠から上海へ」第1段〜下段 冒頭
吳瑞卿の記事は、1900年、アラスカの缶詰工場へ行く約3000人の華工が、カリフォルニア州外で死んだ場合の遺体を中国へ運ぶ費用を雇主が負う条項を求めて出発を拒み、中華總會館が運骨の費用が足りなければ總會館が負担すると約して収まったと述べる
この記述の範囲: 米国の華僑
- 撿骨與原籍安葬反映的美國華僑史 —— 舊金山華人墓園考 P. 1 第3段(注2)
吳瑞卿の記事は、会館は僑界の寄付と遺族の支払いで遺骨の撿運を行い、すべての遺骨を故郷へ帰すため、貧しく身寄りの無い者の費用は会館が負ったと述べる
この記述の範囲: 米国の華僑の会館
- 撿骨與原籍安葬反映的美國華僑史 —— 舊金山華人墓園考 P. 13 第1段
紙錢(冥紙・銀紙・買路錢)は帰葬(歸櫬・運棺・原籍安葬)に現れる。『清稗類鈔』迷信類の「裘文達為水神」の条は、裘曰修の死後、妻の熊夫人が柩を江西へ運ぶ途中、燕子磯の関帝廟でおみくじを引き、遺言どおりの籤が出たので、一家は大いに泣き、江を覆うほど紙錢を焼き、廟に木主を立てたと記す
この記述の範囲: 『清稗類鈔』迷信類「裘文達為水神」
- 清稗類鈔(迷信類二) 清稗類鈔 085(迷信類)「裘文達為水神」の条
中国文化大学の修士論文が『台灣私法』から引く「扶喪」(品官が任地で死んだとき、また在任中に父母の喪に遭ったとき)の段取りでは、出発の前日に祝が霊前で「某日に霊柩を奉じて故郷へ還る」と告げ、当日は魂帛を櫝に納めて柩を轝に移し、儀従が前、銘旌と魂帛がその後に続き、喪主以下は杖をつき哭しながら郊外まで柩に従うとされる
この記述の範囲: 論文が引く『台灣私法』の官員の喪礼(扶喪)
- 台灣殯葬儀式之時空演變 紙面 26 頁(PDF 36 頁)、「(九) 扶喪」の段
帰葬(歸櫬・運棺・原籍安葬)は魂帛に関わる。同じ段取りでは、帰郷の道中に泊まるときは魂帛と銘旌を柩の前に奉じ(柩を一時止めるときもすべて同じ)、水路なら奠を設け陸路なら食を供え、朝の出発のときも同様にするとされる
この記述の範囲: 論文が引く『臺灣私法』の官員の喪礼(扶喪)
- 台灣殯葬儀式之時空演變 紙面 27 頁(PDF 37 頁)冒頭の段
同じ段取りでは、家に着く前日に僕を先にやって家に知らせ、家では十里の外に幕を張り奠を備えて待ち、五服の親族が喪服で迎え、柩は幕の中にしばらく止まり、祝が「霊輀が遠くから帰り家に着こうとしている」と告げてから、皆が歩いて哭しながら家まで従うとされる
この記述の範囲: 論文が引く『臺灣私法』の官員の喪礼(扶喪)
- 台灣殯葬儀式之時空演變 紙面 27 頁(PDF 37 頁)
帰葬(歸櫬・運棺・原籍安葬)は寄柩(寄櫬)に関わる。同篇は、預けた棺のうち故郷へ帰したい者には自分で運ばせ、本当に運ぶ力の無い者には舗戸を定めて船に配して運ぶとし、姓名が分かり親族のいる棺で二年を過ぎたものには三か月の期限をつけ、力のある者には葬るよう促し、力の無い者は経費を出して義塚に埋めるとし、期限を過ぎれば罰があると記す
この記述の範囲: 清代の台湾府(南壇)
- 重修臺郡各建築圖說「建設南壇義塚並殯舍圖說」 同篇本文の中ほど(「其有欲歸故土者」から)
帰葬(歸櫬・運棺・原籍安葬)は四川通志に関わる。『四川通志』(四庫全書本)巻十下の孝友の貫玗の条は、昭化の人・貫玗が康熙六年に父が江西龍泉県の知県の任地で死んでいたことを知り、徒歩で奔喪し、道は荒れ土寇が掠奪する中、道すがら食を乞い、人々がその孝に感じて金帛を助けたので、柩を扶けて郷里へ帰ることができたと記す
この記述の範囲: 清初の四川(保寧府昭化)から江西へ
- 四川通志 巻十下(四庫全書本)「皇清孝友」 巻十下「皇清孝友」保寧府「貫玗」の条(割注)
撿骨(拾骨・洗骨)は帰葬(歸櫬・運棺・原籍安葬)に関わる。教育部の客語辞典に寄せた解説(周金水)は、客家は移住の途中で位牌と遺骸を担いで落ち着く先へ運び、いつか故郷へ帰すことを願ったとし、清の乾隆以後に原郷から台湾へ移るときには祖先の遺骨を台湾に遷葬し、撿骨した遺骨を金斗罋に入れて仮に安置し、数年後に子孫が「背返」して原郷の祖塋へ帰すつもりだったが、日本の統治と両岸の分治で遷葬はかなわなかったと記す
この記述の範囲: 台湾の客家(解説の記述)
- 撿骨(禮俗、教育部臺灣客語辭典 資源PDF) PDF 1 頁(紙面 1)第1・2段
『日知錄集釋』巻十五「改殯」条の注に引く張生洲の説は、世には他郷で死んだ者の柩が帰ってきても門に入れない習いがあると述べ、『禮記』雑記・『左傳』などで客死者の柩を家や寝に入れて殯した例を挙げて、この習いは古礼に反すると批判する。
この記述の範囲: 日知錄集釋 巻十五「改殯」条、原注の【張生洲曰】の段(顧炎武の本文ではない)
- 日知錄集釋 卷十五 巻十五「改殯」条、斉の荘公の段のあとの原注【張生洲曰】の冒頭
同じ張生洲の説は、人々は屍を門に載せ入れるのは避けないのに柩だけを忌むのは愚かだと言い、さらに柩を城に入れることを禁じる令があるため、家に帰して殯したくてもできず、孝子の心をいっそう傷つける、と書く。
この記述の範囲: 日知錄集釋 巻十五「改殯」条、原注【張生洲曰】の後半
- 日知錄集釋 卷十五 巻十五「改殯」条、原注【張生洲曰】の後半(「今人不避」以下)
『仁宗睿皇帝實錄』巻二百八十九(嘉慶十九年四月)は、湖北で病死した漕運総督・桂芳の霊柩について、京に着いたら特に城に入れて喪を営むことを許す一方、同じ日に死んだ随員の戸部員外郎・玉符の霊柩は、桂芳の柩とともに運ばせるが、京に着いても城には入れない、と定める上諭を載せる。
この記述の範囲: 仁宗睿皇帝實錄 巻二百八十九、嘉慶十九年四月の条(桂芳の死を伝える上諭)
- 仁宗睿皇帝實錄 卷二百八十九 巻二百八十九、「又谕、桂芳由嘉庆四年翰林」で始まる上諭
明末の白話小説『二刻拍案驚奇』第二十一巻では、兄が山東で死んだ弟の棺を車に載せて故郷へ帰る途中、曹州東関の飯店に泊まり、車も店の中の空いた所に入れた、と書く。のちに開河集では、公差の勧めで大きな張善の店に喪車を停めて数日泊まり、店主は公差を恐れて部屋を用意した、とする。
この記述の範囲: 二刻拍案驚奇 第二十一巻「許蔡院感夢擒僧 王氏子因風獲盜」の王爵・王祿の話
- 二刻拍案驚奇 第二十一卷「許蔡院感夢擒僧 王氏子因風獲盜」 第二十一巻、「計較已定,去僱起一輛車來」の段と「到了開河集上」の段
同じ話の結びでは、王爵が張善の店で殺されたあと、家人の王惠は棺を買って遺体を納め、店の中に停めて座を設け朝夕に哭して供え、事件が片づくと、二人の息子が張善の店で兩柩に哭拝し、長く柩を停めてもらい、また訴訟に巻き込んだことへの礼として張善に二十両を渡し、車で兩柩を運んで帰った、とする。
この記述の範囲: 二刻拍案驚奇 第二十一巻、王惠が張善の店で棺を停める段と結びの段
- 二刻拍案驚奇 第二十一卷「許蔡院感夢擒僧 王氏子因風獲盜」 第二十一巻、「王惠急去買副棺木」の段と、「到店中將二十兩謝了張善一向停柩」の段
『清稗類鈔』義俠類の「海霞還所盜物」条は、韓公子が保定で死んだ叔父の柩を付き添って故郷へ帰る途中、衛輝で逆旅に泊まったところ盗賊に襲われた、と書く。宿が柩の一行を断った・柩を外に置いたという記述は無い。
この記述の範囲: 清稗類鈔 義俠類「海霞還所盜物」条
- 清稗類鈔(義俠類) 義俠類「海霞還所盜物」条、公子が保定から扶櫬して帰る段
『清稗類鈔』義俠類二の「高螺舟載參將柩返國」条は、道光年間に琉球へ冊封使として赴いた高人鑑が、乾隆期に護送の任で琉球で病死した参将の柩が帰されずに残っているのを見て理由を尋ねると「海船は柩を載せるのを忌む」と答えられた、と書く。高は俗忌にすぎないとして自分の船に載せ、嵐で船の者が柩を海に捨てよと迫ったが、やがて風がやみ、粤東に着いて参将の家に帰した、とする。
この記述の範囲: 清稗類鈔 義俠類二「高螺舟載參將柩返國」条
- 清稗類鈔(義俠類二) 義俠類二「高螺舟載參將柩返國」条の全体
『明史』孝義傳の崔敏の伝は、父が元の綿竹尹となって三十年隔たり、元末の乱で母と兄とも離れた崔敏が、陝西・四川を訪ね歩いたすえ父の殯の場所を知り、攢(仮の埋葬)を開いて遺骸を背負って帰ったと記す
この記述の範囲: 『明史』卷二百九十六 孝義一「崔敏」
- 明史 卷二百九十六(列傳第一百八十四 孝義一) 卷二百九十六、「崔敏,字好學」で始まる伝
『明史』卷二百九十六(孝義一)の劉鎬の伝は、父が憑祥の巡検として任地で没し、道が遠く家が貧しいため柩を帰せなかった劉鎬が、後に憑祥へ赴いて墓を探し当て、血を垂らして確かめたうえで負って帰り葬ったと記す
この記述の範囲: 『明史』卷二百九十六 孝義一「劉鎬」(崔敏伝に付く)
- 明史 卷二百九十六(列傳第一百八十四 孝義一) 卷二百九十六、「同時劉鎬,江西龍泉人」で始まる段
『清史稿』卷四百九十八(孝義二)の陸承祺・承祚兄弟の伝は、鬱林で客死した父の棺を探し当てたのち兄の承祺が悲しみで死に、弟の承祚が父と兄の二人の遺骸を匱(箱)に納め、天秤棒で担いで帰ったと記す
この記述の範囲: 『清史稿』卷四百九十八 孝義二「陸承祺」
- 清史稿 卷四百九十八(列傳二百八十五 孝義二) 卷四百九十八、「陸承祺,字又祉」で始まる伝の後半
『清史稿』卷四百九十八(孝義二)の錢美恭の伝は、雲南で没した父の墓に着いた錢美恭が、貧しく資金が無いため五年とどまったのち、骨を背負って帰り葬ったと記す
この記述の範囲: 『清史稿』卷四百九十八 孝義二「錢美恭」(康熙元年以後)
- 清史稿 卷四百九十八(列傳二百八十五 孝義二) 卷四百九十八、「錢美恭,浙江山陰人」で始まる伝
『清史稿』卷四百九十八(孝義二)の鄭立本の伝は、新疆へ流された父を探して綏來に至った鄭立本が、父の埋葬を開き、母に教えられた左手の小指の特徴で父と確かめ、骨を背負って帰り葬ったとし、往復は八年に及んだと記す
この記述の範囲: 『清史稿』卷四百九十八 孝義二「鄭立本」(本文は時を「張格爾亂未定」とだけ示す)
- 清史稿 卷四百九十八(列傳二百八十五 孝義二) 卷四百九十八、「鄭立本,江蘇蕭縣人」で始まる伝
『清史稿』卷四百九十八(孝義二)の方如珽の伝は、清初に潜山で客死した曽祖父の喪が帰らないままだったのを、成長した方如珽が族の姑の手引きで洞の中の朽ちた棺から見つけ、骨を背負って帰り葬ったとし、曽祖父の死から五十六年後だったと記す
この記述の範囲: 『清史稿』卷四百九十八 孝義二「方如珽」
- 清史稿 卷四百九十八(列傳二百八十五 孝義二) 卷四百九十八、「方如珽,休寧人」で始まる伝
安克强『镰刀与城市』(2022年の中国語訳)の書評は、同書によれば民国期の上海では少なくとも60の会館・公所が死者の扱いに関わっており、1950年に人民政府が調べたときにも40の会館・公所がまだ葬送の業務を行っていた、と紹介する。
この記述の範囲: 上海の会館・公所、民国期〜1950年(書評による紹介)
- 阮清华评《镰刀与城市》︱魂断上海滩——近代上海的死亡与殡葬 書評の本文、会館・公所の段(同書36頁を示す箇所)
中国新聞網の記事(2017、香港『大公報』の報道の転載)は、郷里を思う多くの老兵は1987年の両岸の探親の開放を生きて迎えられなかったと記者の地の文で書き、高秉涵は帰郷の前に花蓮・宜蘭などの軍人公墓へ行って故郷へ帰す骨灰罈を受け取ってくるとし、軍人公墓には写真を貼り名前と籍貫を記した骨灰罈が「上万」(万に上る)あると書く(数の出典は示されていない)。『觀察』誌の紀欣の記事(2017)も、高秉涵は帰郷が近づくたびに花蓮・宜蘭などの軍人公墓へ行って帰郷を待つ骨灰罈を受け取ると書く(骨灰の総数には触れない)。
この記述の範囲: 台湾の軍人公墓に置かれた老兵の骨灰(2017年の報道の時点)
- 高秉涵:我抱着的不是老兵的遗骨,而是满满的乡愁 本文(見出しと写真説明を除いて数える)第3段(「高秉涵知道」で始まる段)と第7段(「每次临近返乡」で始まる段)
- 高秉涵:帶老兵骨灰罈回家 本文第5段(「20多年來」で始まる段)
大陸の人の台湾への入境の許可辦法(內政部)の第27條は、台湾にいた配偶者・二親等内の血族・配偶者の父母・子の配偶者が民國81年(1992年)12月31日以前に亡くなった大陸地区の人は、遺骸・骨灰を運び帰るために台湾への入境を申請でき、それは一度に限ると定める。
この記述の範囲: 現行の辦法(民國110年7月27日修正)の第27條第2項
- 大陸地區人民進入臺灣地區許可辦法 第27條(第2項)
退輔會の、亡き榮民の骨灰を大陸の家族へ返すための作業規定は民國82年(1993年)2月8日に公発布され、亡くなった榮民の「靈骨」を根へ帰すことを目的に掲げ、大陸にいる家族が自分で、または台湾の親友に託して、榮民が籍を置いていた地の退輔會の遺産管理機関に骨灰を申し出て受け取れると定める。
この記述の範囲: 退輔會の作業規定(民國114年11月25日修正の文言)
- 亡故榮民骨灰發還大陸地區家屬作業規定 頁頭の公發布日と、第一項・第二項
退輔會の骨灰発還の規定は、申し出に申請書と、海峽交流基金會が検証した親族関係と委託の公証書が要る(遺産相続の申請のときに出していれば省ける)とし、民法第1138条の相続人でない者が申し出たときは、大陸地区の相続の期限が満ちてから骨灰を渡すと定める。
この記述の範囲: 退輔會の作業規定(民國114年11月25日修正の文言)
- 亡故榮民骨灰發還大陸地區家屬作業規定 第二項後段と第三項
退輔會の骨灰発還の規定は、骨灰が國軍示範公墓・忠靈塔(殿)・各縣市の軍人忠靈祠や公私の骨灰(骸)存放設施に納められている場合は遺産管理機関が受け取りを手伝い、死亡証明・火葬許可証・存放証明・除戸の戸籍資料などのうちどれか一つを出すのを手伝い、出境の手続きは申請者が移民署などとするとし、申し出と出境の費用はすべて申請者が負うと定める。
この記述の範囲: 退輔會の作業規定(民國114年11月25日修正の文言)
- 亡故榮民骨灰發還大陸地區家屬作業規定 第六項・第七項・第八項
中国新聞網の記事(2017)は、1949年に13歳で台湾へ渡った高秉涵が、42年後の1991年に初めて山東の故郷へ帰り、1992年に最初の老兵(王士祥)の骨灰を届け、この30年で近く200罈の老兵の骨灰を大陸へ抱えて帰り、遠くは新疆まで届けたと書く。
この記述の範囲: 高秉涵(2017年の報道の時点)
- 高秉涵:我抱着的不是老兵的遗骨,而是满满的乡愁 本文(見出しと写真説明を除いて数える)第1段(「据香港《大公报》报道」で始まる段)、第5段(「1992年」で始まる段)、末尾近くの「1991年5月」の段
『觀察』誌の紀欣の記事(2017)は、13歳で故郷を離れた年を1948年とし、高秉涵は1992年5月に57歳で42年ぶりに故郷へ帰り、同じ年に最初の同郷人の骨灰を山東の家族に渡し、20年余りで百を超える老兵の骨灰を大陸各地へ届けたと書く。記事の年のとおりなら、1948年から1992年までは44年で、「42年ぶり」とは合わない。
この記述の範囲: 高秉涵(2017年の記事の時点)
- 高秉涵:帶老兵骨灰罈回家 本文第1段(「在6月18日」で始まる段)・第2段(「1948年」で始まる段)・第3段(「1992年5月」で始まる段)・第4段(「同一年」で始まる段)・第5段(「20多年來」で始まる段)
中国新聞網の記事(2017)は、高秉涵の話として、骨灰を託した老兵の多くは大陸の家族と連絡が絶え、台湾にも子のいない独り身で、そのうち三分の一ほどは家族が見つからず、本人の言い残しに従って村の入り口や土地、もう分からなくなった旧家の方角に骨灰を撒いたと伝える。
この記述の範囲: 高秉涵が運んだ骨灰(本人の語り)
- 高秉涵:我抱着的不是老兵的遗骨,而是满满的乡愁 本文(見出しと写真説明を除いて数える)第8段(「大多数拜托高秉涵的老兵」で始まる段)
まだ分からないこと
- 清代〜民国で、道士や喃嘸先生が葬式・送柩で受けた謝礼の額を示す記録はあるか?
- 湖南・貴州・四川の同郷会館が、客死した同郷人の寄柩・運柩をした記録はあるか?
- 帆刈論文の注7・8が挙げる、漢口の江西人ギルド会館の「死在西江」の扁額と埋葬の実態の出典は何か?扁額の字は論文の誤植か、原額どおりか?
- 遺体・棺・金斗甕を背負って運ぶための道具(背架・背簍・背負い枠)を具体的に書いた民俗資料はあるか?
- 柩を家の門や城に入れない忌み・禁令は、旅の途中で宿屋が柩を泊めるかどうかの決まりとも結びついていたのか?
- 湖南・四川・貴州の同郷会館の寄柩と運柩は、1950年代にどのように終わったのか?
- 退輔會の規定(1993年)で大陸の家族に渡された亡き榮民の骨灰は、何件あったのか?
- 高秉涵が初めて故郷へ帰ったのは1991年か1992年か、老兵の骨灰を届けた数は百余りか二百近くか?