話
吳綱(太平廣記卷三百八十九)
- 吳綱
資料の記述
開けた墓・棺の屍が生きているよう(如生)は吳綱(太平廣記卷三百八十九)に現れる。『太平廣記』卷三百八十九「吳綱」(『水經』から出るとする)は、魏の黄初末に吳の人が木材を取るため長沙王吳芮の塚を発くと、屍の容貌も衣服ももとのままで、後に塚の発掘に加わった者が吳芮に似た子孫の吳綱に出会ったと記し、吳芮の死から塚が開くまで四百年とする
この記述の範囲: 『太平廣記』卷三百八十九「吳綱」
- 太平廣記 卷第三百八十九 塚墓一 太平廣記 卷第三百八十九、見出し「吳綱」
吳綱(太平廣記卷三百八十九)は太平廣記に収められている。
この記述の範囲: 『太平廣記』卷第三百八十九 塚墓一(維基文庫の翻刻)
- 太平廣記 卷第三百八十九 塚墓一 太平廣記 卷第三百八十九、見出し「吳綱」
北魏の酈道元『水經注』卷三十八の湘水の条は、臨湘県の北に吳芮の墓があり、広さは六十八丈を超え、高みから町を見渡せる憩いの場になっていると書き、郭頒『世語』を引いて、吳芮の墓が暴かれた話(屍の顔も衣服ももとのままだった。のち、墓を暴いた者が子孫の吳綱に会った)を載せる。墓の木材は県に孫堅の廟を建てるために取られ、吳芮の死から墓が開かれるまで四百年、それから吳綱に会うまでさらに四十年余りだった、とする。
この記述の範囲: 『水經注』卷三十八 湘水の条(維基文庫の翻刻)。『太平廣記』は出典を『水經』とする
- 水經注 卷三十八(資水・漣水・湘水・灕水・溱水) 卷三十八 湘水の条、臨湘県の城のくだりの後半
梁の沈約『宋書』の禮志は、吳の孫權は天子の七つの廟を立てず、父の孫堅がかつて長沙太守だったので長沙の臨湘県に孫堅の廟を立てただけだったと書き、民が掘り出した吳芮の墓の材木でその建物を造ったのは、それまでに聞いたことのない例だった、と記す。
この記述の範囲: 『宋書』卷十六 志第六 禮三(維基文庫の翻刻)
- 宋書 卷十六 志第六 禮三 卷十六 禮三、孫權の廟の立て方を述べる段
『太平御覽』は、吳芮の墓が暴かれた話と吳綱の話を二か所に引く。卷五百五十八(墓の部)の文は、墓の材木で臨湘に孫堅の廟を立てたとし、吳芮の死から墓が開かれるまでを四百年余り、吳綱を吳芮の十六代目の子孫とする。卷三百九十六の文は、墓を暴いた者が会った吳綱を淮南の人とし、吳綱まで五百年近いとする。
この記述の範囲: 『太平御覽』卷五百五十八 禮儀部三十七と卷三百九十六 人事部三十七(維基文庫の翻刻)。どちらの文も書名の表示が欠けるか、前の条と同じ書からの引用を示す「又曰」(また言う)で始まり、直前の条は『世說』の引用
- 太平御覽 卷五百五十八 禮儀部三十七(冢墓二) 卷五百五十八 禮儀部三十七「冢墓二」、黄初の末に長沙王吳芮の墓を暴いた条
- 太平御覽 卷三百九十六 人事部三十七 卷三百九十六 人事部三十七、『世說』に続く「又曰」の条