文献
三國志
西晋の陳壽が撰んだ魏・蜀・吳の三国の史書で、劉宋の裴松之が注を付けた。魏書の文帝紀には、戦乱で漢の皇帝の陵がことごとく暴かれたことを戒めとして、薄く葬るよう命じた文帝の遺命が載る。
資料の記述
死不瞑目(死んでも目を閉じられない、という言い回し)は三國志に現れる。孫堅は、董卓から和親を持ちかけられたとき、董卓の三族を滅ぼして天下に示さないなら自分は死んでも目を閉じられない、と言って退けた。ここでの「死不瞑目」は生きている者の決意の言葉で、死者の目の様子を述べたものではない。
この記述の範囲: 『三國志』卷46 呉書·孫破虜討逆傳(孫堅伝の本文)
- 三國志/卷46(呉書·孫破虜討逆傳) 三國志 卷46 孫堅伝、董卓が李傕らを遣わして和親を求めた段
『晉書』卷八十二の陳壽の伝は、蜀に仕えた陳壽が、蜀が滅びたあと晋に仕えて魏・吳・蜀の『三國志』六十五篇を撰び、当時の人は叙事が巧みで良い史官の才があると評した、と記す。伝は、陳壽が元康七年(297年)に亡くなると、范頵らが上表して『三國志』を推し、詔によって洛陽の役人が陳壽の家でこの書を書き写した、とも書く。
この記述の範囲: 『晉書』(唐の勅撰)の陳壽伝の範囲
- 晉書 卷八十二 列傳第五十二 晉書 卷八十二「陳壽」の条(冒頭の段と元康七年の段)
維基文庫の『三國志』目次頁の解説は、この書を晋の陳壽の撰、劉宋の裴松之の注とし、魏志三十卷・蜀志十五卷・吳志二十卷から成ると書く。解説は、裴松之が元嘉年間に詔を受けて注を作り、諸書を広く引いて本文に無い事や人を補ったので、六朝の今に伝わらない書の大略がそこに残り、考証の学者は陳壽の本文よりも注のほうを多く引く、とする。
この記述の範囲: 目次頁の冒頭の解説(四庫全書總目提要の体裁の文。頁に出どころの表示は無い)
- 三國志(目次頁) 目次頁の冒頭の解説の囲み(第1段の冒頭と第2段)
墓を暴く(發冢・盜墓)は三國志に現れる。『三國志』魏書の文帝紀は、魏の文帝(曹丕)が黃初三年(222年)に生前の墓所を定めて作った「終制」(自分の葬り方の遺命)を載せる。終制は、昔から滅びない国は無く、暴かれない墓も無いとし、戦乱以来、漢の皇帝たちの陵は暴かれないものが無く、玉の葬具や金の糸を焼いて取り、遺骨まで尽きてしまったのは、厚く葬り盛り土をして木を植えたせいだと言う。そのうえで、珠や玉の葬具を使わず、口に珠玉を含ませず、器は瓦にせよと命じる。
この記述の範囲: 『三國志』卷二 文帝紀、黃初三年冬十月の条に引かれる終制の文
- 三國志 卷02(魏書 文帝紀) 三國志 卷02 文帝紀、黃初三年「冬十月甲子,表首陽山東爲壽陵,作終制曰」の段
墓を暴く(發冢・盜墓)は三國志に現れる。『三國志』魏書の袁紹の伝に裴松之が付けた注は、『魏氏春秋』が載せる袁紹の檄(敵を責めて各地に呼びかける文書)を引く。檄は曹操について、漢の諸侯王だった梁の孝王の墓を将校や兵に自ら臨んで発掘させ、棺を破って屍を裸にし金宝を奪ったと責め、さらに「發丘中郎將」「摸金校尉」という墓を掘る役の官を置いたので、通った所では骸骨がさらされないものは無かった、と書く。注は、この檄を陳琳の文だと付け加える。
この記述の範囲: 裴松之の注が引く『魏氏春秋』の檄の範囲。曹操と争っていた袁紹の側の非難の文で、事実かどうかはこの文からは分からない。注は末尾にこの檄を陳琳の文と記す
- 三國志 卷06(魏書 董二袁劉傳) 三國志 卷06 袁紹伝、建安五年の段に付く裴松之の注(『魏氏春秋』の「紹檄州郡文」)