研究所の創作 短編集
壺の有る棺
1911 年 / 海の向こうの港町、会館の墓地
この話は初稿です。欄外解説と挿絵は準備中です。
棺の蓋が外れますと、骨洗いの手は、骨より先に、頭のあった所の下へ入るのでございます。
指の腹で土を探ります。砂の混じった乾いた土で、七年のあいだに締まっておりますから、指は少しずつしか進みません。やがて指の先が、土でない丸いものに当たります。素焼きの小壺でございます。こぶし一つほどの大きさで、口は固く閉じてあります。骨洗いはそれを土ごと掬い上げ、泥を払い、脇に置いた新しい箱の底へ据えます。それから初めて、骨の方へ向き直るのでございます。
棺の脇には、朱で書いた札の束が、石で押さえて置いてございます。骨洗いはその束に手を伸ばしません。束はそのままに、足の方から骨を拾いはじめます。
これが、壺の有る棺の手順でございます。壺の無い棺には、別の手順がございます。
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その町は、海の向こうの港町でございました。唐人は金山(きんざん)と呼びならわし、町の東の、坂の多い一画に唐人の町がございました。会館はその中にあり、表は廟、奥は帳場、裏の倉には空の箱が積んでございます。
町の外れ、海の見える丘の斜面に、会館の墓地がございました。会館ごとに区画が分かれ、木の墓標が斜面に沿って段々に並んでおります。墓標には名と、生まれた県の名が墨で書いてあります。海からの風が年じゅう吹き上げる所で、墓標はどれも少しずつ海と反対の方へ傾いております。斜面の下に焚き炉が一つ、清明と重陽の公祭に紙を焼くためのものでございます。
その墓地を、会館は仮の墓地と呼んでおりました。葬った者をそこに置いたままにはしない、という名でございます。七年ばかり経って、骨になったころに掘り、洗って、箱に納め、船で香港へ送る。香港の義荘(ぎそう)から先は、郷の善堂と家の者の手に渡るのでございます。
墓地には番人が一人おります。阮(げん)老人という、七十に近い年寄りで、ここの番をもう二十年しております。朝に斜面を上から下まで歩き、墓標の傾きと土の盛り上がりを見て、犬が入っていれば追い出し、新しい墓には三日のあいだ朝夕の香を立てます。鈴は持ちません。帳面を一冊持っていて、そこに区画の順と、墓標の字と、自分の目で見て覚えたことが書いてあります。
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その年の春、会館の帳場で、書記の黎(れい)が許可証の数を数えておりました。
役所の許可証は、掘る分と、持ち出す分と、二通りございます。黎は名単を広げ、区画ごとの墓の数を書き出し、許可証の数と突き合わせます。合わないと、船に積む前に役所の者が倉へ来て、箱を一つずつ数えるからでございます。
七年前には、合わなかったのだそうでございます。墓の数より許可証が少なかった。なぜ少なかったかを黎は言いませんでしたし、その年、どうやって船に積んだかも言いませんでした。ただ、今年は合わせる、とだけ申しました。黎は筆を置くたびに、墓の数の列と許可証の数の列とを、指で上から下まで二度なぞりました。
帳場の奥の間では、麥(ばく)道士が札を書いておりました。会館が年ぎめで置いている道士で、廟の係も兼ねております。冬のうちから書きはじめて、春になるころには、黄の竹紙の束が机の脇に幾つも積まれておりました。朱は香港から来ます。練った朱を小さな壺に入れて、船で。一冬に使う朱は、ふだんの三年分だと麥道士は申しました。
札は二通りございます。一つは骨の額に載せる札で、名単の名を一枚ずつ書いたもの。もう一つは箱の蓋の裏に留める札で、名は書かず、この箱の内の者、とだけ書いたもの。麥道士は、名のある札を区画ごとに束ね、名の無い札を別に束ねました。名のある札の束は、名単の墓の数と同じだけございます。壺の有る棺にも無い棺にも、一枚ずつ。七年前の帳面には、どの棺に壺を入れたかが書いてございません。開けてみるまで分からないのでございます。
鄺阿海(こう・あかい)が会館に呼ばれたのは、その春の終わりでございます。
阿海は唐人の町の洗濯屋で働いておりました。三十七になります。七年前の起骨にも雇われて骨を洗いました。そのとき覚えた手を、会館は忘れていなかったのでございます。黎は阿海に、秋に掘る、骨洗いの頭を頼む、と申しました。賃は一日に洗濯屋の三日分、昼の飯は会館が出す。ほかに五人、手の確かな者を阿海が集める。阿海は、はい、と答えて、洗濯屋へ戻りました。夏のあいだは、洗濯屋の仕事のままでございます。湯と灰汁で荒れた手は、骨を洗うにも向いていると、七年前に阮老人が言ったことがございます。
阿海は首に、麻布の小さな包みを下げております。母が包んだ土で、二度目の渡航のときに持って出たものでございます。一度目のときには、持っておりませんでした。
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秋になりました。
重陽の公祭が先に済みました。会館の者が丘に上がり、焚き炉で紙を焼き、区画ごとに香を立てました。風の無い朝でございました。阮老人は供えの皿を片づけ、その翌日から、斜面の上の端に筵(むしろ)を広げる場所を作りはじめました。
朝は霧が出て、昼には乾いた風が吹き、夕方には海の方から風が返ってまいります。骨を洗って筵に並べれば、昼のうちに乾く季節でございます。
初めの朝、阮老人が斜面の上で阿海と骨洗いたちを待っておりました。
「上の端から下へ。一列ずつ」と阮老人は申しました。「埋めたのが古い順でございます」
骨洗いは、阿海のほかに五人おりました。年かさが二人、若いのが三人。年かさの二人は七年前にも掘った者で、若い三人は初めてでございます。水は阮老人の小屋の脇の井戸から、天秤で運びます。筵は斜面の上の、朝のうちに霧の晴れる所に広げます。墓標を抜く鉤、鍬(くわ)、水桶、筵、絹と粗布、刷毛。箱は会館の倉から荷車で運んで、斜面の下に積んでおります。木の箱と、磁器の甕(かめ)を収める箱と、二通りございます。甕は、自分で代を残した者と、家が送り賃を送って来た者のもの。木の箱は、会館の銭で帰る者のものでございます。甕も、積むときは箱に収めます。船は、荷を尺で量るからでございます。
黎は斜面の下に机を据え、名単を広げました。麥道士は朝のうちに来て、その日の分の札の束と、その朝に練った糊の鉢とを黎の机に置いて帰りました。墓地に昼までいることは、ございません。
「抜いた札は、束にして石で押さえておけ」と、麥道士は初めの朝に阿海に申しました。「わしが焼く」
最初の墓の前で、阮老人が墓標の字を読み上げました。名と、県の名でございます。阿海がそれを繰り返して、鍬を入れました。
棺は浅い所にございました。蓋の板は湿って黒く、持ち上げると端から崩れました。阿海はまず、頭の下に手を入れました。土の中で指が壺に当たりました。それを掬い上げ、泥を払って、骨洗いの一人が差し出した箱の底に据えました。それから足の方から骨を拾いはじめました。札の束には手を触れませんでした。
次の棺には、壺がございませんでした。
阿海は頭の下を、指でもう一度探りました。土ばかりでございます。阿海は手を抜いて、棺の脇の札の束から、墓標の名の札を一枚取り、頭の骨の額に載せ、人差し指と中指の二本で押さえました。しばらくそのまま押さえておりました。それから、片方の手で足の方から骨を拾いはじめました。札を押さえた指は、骨を全部拾い終わるまで、離れませんでした。
拾った骨は、水桶の水で洗います。土を落とし、刷毛で節の間をこすって、筵の上に並べます。七年の土から出た骨は、思うより白く、思うより軽うございます。骨は日に当てて乾かします。頭の骨にだけ、粗布を一枚かけます。昼のうちに乾いた骨は、包んで箱に寝かせます。甕の者は絹で、箱の者は粗布で。壺の無い棺の骨は、札を額に載せたまま筵に置かれ、箱に納めるときも、載せたままでございます。
箱に蓋をするとき、骨洗いは名の無い札を一枚取り、蓋の裏に糊で留めます。蓋を箱に載せ、それから、蓋と箱の隙間から、頭の骨の額の上の札を指でそっと引き抜きます。抜いた札は、別の束にして石で押さえておきます。
壺の有る箱には、名の無い札を留めません。蓋を載せて終わりでございます。
黎は斜面の下で、箱の側に墨で名と県の名を書き、荷札を結び、名単に印を付けます。荷札には名と県の名のほかに、会館の名と、箱の番号を書きます。番号は名単の順でございます。名単の脇には、札代の欄がございます。黎は壺の無い箱の行にだけ、その欄に数を書き入れ、壺の有る箱の行は空けておきました。
一日に、二十あまりの棺を開けました。日が傾くと、骨洗いたちは筵を巻き、箱を荷車に載せて会館の倉へ運びます。阮老人は、抜いた墓標を焚き炉の脇に集め、斜面の穴を見回ってから、小屋へ戻ります。穴は夕方のうちに埋め戻します。埋め戻した土は、翌朝の霧で黒く湿っておりました。
若い骨洗いの一人が、二日目の朝、蓋を外すなり札の束へ手を伸ばしました。阿海はその手首を、何も言わずに押さえました。それから自分の手を、頭の下へ入れて見せました。壺がございました。若い骨洗いは、それからは、まず頭の下へ手を入れるようになりました。壺が有っても無くても、手の順はその一つでございます。
日が経つにつれて、斜面の上の方から墓標が消え、斜面の下に積まれる箱が増えてまいります。骨洗いたちの手は、水と土とで荒れて、夕方には指の節が割れました。阿海は洗濯屋の灰汁で荒れた手に、さらに土の筋が入りました。筵は毎晩巻いて小屋に入れ、朝に広げます。筵の藁に、骨の乾いた匂いが移ってゆきました。腐った匂いではございません。日に当てた石のような、乾いた匂いでございます。
夕方の海風が吹きはじめると、筵の上の軽い骨が動きますので、骨洗いたちは風の出る前に箱へ納めるようになりました。阮老人は斜面の上の小屋の前に立って、風の出る頃合いを見ております。風が出る少し前に、阮老人が手を一つ叩きますと、骨洗いたちは筵の骨を包みはじめます。七年前も、そうしていたのだそうでございます。
阿海は、棺を開けるたびに、頭の下へ手を入れる前に、首の包みを掌で一度押さえました。
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幾日目かに、温(おん)氏の墓を開けました。
女の墓でございます。墓標には夫の姓と県の名が書いてありました。夫と一緒に海を渡って来て、夫より先に死んだのだと、阮老人が申しました。夫はそのあと帰郷して、送り賃を会館へ送って来たそうでございます。だから温氏の箱は、磁器の甕を収めた箱でございました。
蓋を開けると、阿海は頭の下へ手を入れました。壺がございました。阿海は壺を掬い上げ、甕の底に据えました。それから足の方から骨を拾い、洗い、筵に並べて乾かし、絹で包んで甕に納めました。甕を箱に収め、蓋を載せました。札の束には触れませんでした。
それだけでございます。黎は札代の欄を空けました。
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鄧(とう)の若者の墓は、斜面の中ほどにございました。
阮老人は、その墓標の前で、帳面を見ませんでした。見なくても覚えている、という顔でございました。墓標には、ほかの墓標には無いものが留めてございました。朱の字の札でございます。雨に打たれて、字は茶の出がらしのような色になっておりましたが、紙は墓標に貼りついたまま残っております。
「この墓は、二度ほど騒いだ」と阮老人は申しました。
騒ぐ、というのがどういうことか、阮老人は言いませんでした。阿海も聞きませんでした。阮老人は帳面を開き、札を留めた年を二つ、指で押さえて見せました。一度目は葬った翌年の春、二度目はその三年あと。どちらも麥道士が札を書き、自分の手で墓標に留めました。
阿海は名を呼び、鍬を入れました。
壺はございませんでした。阿海は頭の下を、いつもより長く探りました。それから手を抜いて、札の束から鄧の若者の札を取り、頭の骨の額に載せ、二本の指で押さえました。
足の方から骨を拾ってゆきますと、腰のあたりで、手が止まりました。
ここの土は、砂でございません。斜面の中ほどに、水の出る粘った土の筋があって、そこだけ黒く湿っております。骨は、骨だけになっておりませんでした。腰の骨の一か所に、まだ、落ちきらないものが付いております。
阿海は、額に載せた札を押さえた指を、離しませんでした。もう一方の手を膝に置いて、しばらく、そのままでおりました。骨洗いたちも、手を止めておりました。斜面の下で、黎が顔を上げました。
阮老人が斜面を下りて来て、棺の中を覗きました。
「骨になれば、おとなしい」と阮老人は申しました。
それが、その場所についての、阮老人の言葉のすべてでございました。阿海は息を一つして、空いた方の手で、粗布を取りました。落ちきらないものを、骨ごと粗布で包み、筵の端に、ほかの骨から少し離して置きました。ほかの骨は洗って並べました。乾くのを待つあいだ、阿海は札を押さえたまま、筵の脇に座っておりました。昼の風が筵の端をめくり、若い骨洗いが石を載せに来ました。
夕方、鄧の若者は木の箱に納められました。蓋の裏に名の無い札を留め、蓋を載せ、隙間から額の上の札を抜きました。黎は箱の側に名と県の名を書きました。札代の欄に数を入れました。
墓標は、札を留めたまま、ほかの墓標とは別に、焚き炉の脇に立てかけてございました。
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名の分からない墓が、一つございました。
墓標は立っておりましたが、字が消えております。雨と塩の風で、墨が流れたのでございます。阮老人の帳面にも、黎の名単にも、その並びのその場所に、何も書いてございませんでした。七年前の起骨のときに、その墓標の字がまだ読めたかどうかも、誰も覚えておりません。
黎は名単の、その墓の当たる所に、行を一つ空けました。
阿海は、名の代わりに、県の名を呼びました。この区画の者は、みな同じ県から来ているからでございます。それから鍬を入れました。
壺はございませんでした。麥道士の札の束の中に、名を書かず、県の名だけを書いた札が、幾枚か混じっております。字の読めない墓標のために、麥道士が朝ごとに幾枚か足しておいたものでございます。阿海はその一枚を取り、額に載せ、二本の指で押さえました。
骨は、ほかの骨と同じに拾い、洗い、乾かし、箱に納めました。箱の側には県の名だけが書かれ、荷札にも県の名だけが書かれました。黎は空けた行の脇に、小さく、箱の番号だけを書きました。
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壺が割れていた棺が、一つございました。
頭の下へ手を入れた指が、壺の丸みでなく、欠けた縁に当たりました。掬い上げますと、壺は二つに割れていて、中の土は、棺の底に散っております。七年のあいだに割れたのか、葬るときにもう割れていたのか、分かりません。
阿海は、割れた壺の二つの片を箱の底に据えました。それから、棺の底の、壺のまわりの土を、両の掌で掬って、箱の底の壺の脇に集めました。どこまでが壺の土で、どこからが棺の土か、掌の上では分かりません。阿海は、集められるだけ集めて、箱の底に置きました。
それから、札の束から、墓標の名の札を一枚取り、頭の骨の額に載せ、二本の指で押さえました。
黎は、その箱の行をどう書いてよいか分からず、札代の欄に数を書き、その脇に壺、とも書きました。
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途中のある晩、阮老人が、洗濯屋の裏の阿海の寝床へ来ました。
洗濯屋の裏には、湯を沸かす竈(かまど)があって、夜も温うございます。阿海はそこの板の上に寝ております。阮老人は茶を持って来て、竈の火の前に座り、帳面を開きました。
七年のあいだに、墓標に札を留めた墓が、十と幾つ。阮老人はその行を一つずつ指で押さえて、阿海に見せました。騒いだ年と、札を留めた日と、翌年の立春に書き改めた日。鄧の若者の墓は、その中の二行でございます。ほかに、一度だけ騒いで、それきりの墓が幾つかございます。
「土が、夜のうちに盛り上がる。墓標が傾く。朝に見ると分かる」と阮老人は申しました。「それだけでございます。それだけのことで、札を留めます」
阮老人が朝に見つけ、会館へ下りて知らせますと、その日のうちに麥道士が上がってまいります。麥道士はその場で糊を練り、墓標の、字の下の所へ札を留めます。阮老人はそのあとで土を盛り直します。翌年の立春には、麥道士が新しい札を書いて上がって来て、古い札の上へ重ねて留め、糊が落ち着いてから古い札を下から抜いて、持ち帰ります。
騒いだ墓の墓標には、海の風で傾く向きと逆に傾くものがある、と阮老人は申しました。それで分かる。それ以上のことは、申しませんでした。
阮老人の帳面には、札を留めた年のあとに、何年か経ってから、静、と一字書いた行がございました。
「骨になれば、おとなしい」と、阮老人はもう一度申しました。墓地の斜面で言ったのと同じ声でございました。
阿海は茶を飲み、帳面を返しました。首の包みは、襟の内にございます。阮老人はそれを見ませんでしたし、阿海も見せませんでした。
阮老人は帰りがけに、戸口で振り返りました。
「七年前にも、おまえさんは、まず頭の下へ手を入れていた」
阿海は、はい、と答えました。阮老人はうなずいて、帰ってゆきました。竈の火が落ちて、裏の戸の隙間から、海の方の風が入ってまいりました。
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秋のうちに、斜面の墓標は、上から下へと減ってゆきました。
抜いた墓標は焚き炉の脇に積まれ、公祭の紙を焼く日に一緒に焼かれます。鄧の若者の墓標だけが、札を留めたまま、積まれずに立てかけてございます。
会館の倉には、箱が並びました。奥から順に、区画ごとに、箱の側の字を外に向けて。甕を収めた箱と、木の箱とが、同じ列に並んでおります。黎は夕方ごとに倉へ来て、その日の箱を数え、名単の数と合わせました。数は、合いました。黎は、合った数を、名単の端に書き、その日の日付を添えました。
香港の義荘へ送る手紙の下書きも、黎は倉の机で書いておりました。船の名、積む日、箱の数、県ごとの数。そのあとに、壺の有る箱の数と、無い箱の数とを、分けて書きました。七年前の手紙にもそう書いた、と黎は申しました。壺の無い箱の数が、札の数でございます。黎はその数を、麥道士の名の無い札の束の残りと突き合わせて、一枚も違わないことを確かめました。
最後の日は、斜面のいちばん下の列でございました。
その日の朝、麥道士は、札の束を黎の机に置いて帰らず、焚き炉の脇に残りました。斜面の下で、骨洗いたちが額から抜いた札を日ごとに束ねて石で押さえたものが、幾束にもなっております。麥道士はそれを一束ずつ焚き炉に入れ、火を付けました。朱の字の紙は、縁から焦げて、黄の紙が黒くなり、灰になってゆきます。鄧の若者の墓標の札も、麥道士が自分の指で剥がして、炉に入れました。墓標は、ほかの墓標の山へ移されました。箱の蓋の裏に留めた札は、焼きません。箱と一緒に、船で行くのでございます。
煙は、丘の上へ立ちました。阿海は斜面の下の列で、札の煙を背にして、棺を開けておりました。
二十あまりの棺を開けた、最後の一つでございます。
阮老人が墓標の字を読み上げました。阿海がそれを繰り返しました。鍬を入れ、蓋を外しました。頭の下へ手を入れますと、指が壺に当たりました。阿海はそれを掬い上げ、泥を払い、箱の底に据えました。それから足の方から骨を拾い、洗って筵に並べ、乾くのを待って、粗布で包んで箱に寝かせました。
蓋を載せる前に、阿海は箱の底の壺を、もう一度見ました。それから、首の包みを襟の内から引き出して、一度だけ見ました。麻布は七年の汗で色が変わり、縫い目は固くなっております。見ただけで、開けはしませんでした。阿海は包みを襟の内へ戻し、箱に蓋を載せました。
斜面の下で、黎が、箱を数える声がしておりました。
この話は、研究所の設定をもとにした創作で、史実ではありません(短編集について)。