モチーフ
遺体・遺骨を背負って運ぶ(負骨・背屍)
- 背屍
- 負骨還鄉
- 背祖骨
- 背尸
死者の遺体や遺骨を人が背負って運ぶこと。研究所が参照した資料では、明清の正史の孝義伝の「負骨」、宋代の五溪の葬法の「背屍」、台湾・広東の客家の移住の話、2004 年の出稼ぎ労働者の事件に現れる。
資料の記述
遺体・遺骨を背負って運ぶ(負骨・背屍)は明史に現れる。『明史』孝義傳の序は、親に孝を尽くした者の型として、万里に親を尋ねる・三年墓に廬する・喪を聞いて死ぬと並べて、「負骨還鄉」(骨を背負って郷里へ帰る)を挙げ、洪武年間の該当者の名を列ねる
この記述の範囲: 『明史』卷二百九十六 孝義一の序
- 明史 卷二百九十六(列傳第一百八十四 孝義一) 卷二百九十六 孝義一、序の第三段(「其事親盡孝」で始まる段)
遺体・遺骨を背負って運ぶ(負骨・背屍)は明史に現れる。『明史』卷二百九十六(孝義一)の顧琇の伝は、父の充軍(鳳翔)に従った母が六年後に没すると、顧琇は駆けつけて母の骨を背負って数千里を行き、眠るときは骨を家の梁に吊るし、川を渡るときは頭の上に戴いたと記す
この記述の範囲: 『明史』卷二百九十六 孝義一「顧琇」(洪武初)
- 明史 卷二百九十六(列傳第一百八十四 孝義一) 卷二百九十六、「有顧琇者,字季粟」で始まる段
遺体・遺骨を背負って運ぶ(負骨・背屍)は清史稿に現れる。『清史稿』孝義二の趙萬全の伝は、明末に北へ出て馬邑で死んだ父を探し当てた趙萬全が、殯所で父の骨を包み、背負って帰ったと記す
この記述の範囲: 『清史稿』卷四百九十八 孝義二「趙萬全」
- 清史稿 卷四百九十八(列傳二百八十五 孝義二) 卷四百九十八、「趙萬全,浙江會稽人」で始まる伝
遺体・遺骨を背負って運ぶ(負骨・背屍)は清史稿に現れる。『清史稿』卷四百九十八(孝義二)の李澄の伝は、明末の乱で山谷に避難中、病の重い母が山の中で死にたくないと言うので李澄が母を背負って仏寺へ行き、母がほどなく死ぬと、遺骸を背負って祖先の墓に仮に葬ったと記す
この記述の範囲: 『清史稿』卷四百九十八 孝義二「李澄」(明末)
- 清史稿 卷四百九十八(列傳二百八十五 孝義二) 卷四百九十八、「李澄,字仲瀾」で始まる伝
撿骨(拾骨・洗骨)は遺体・遺骨を背負って運ぶ(負骨・背屍)に関わる。臺灣客庄文化數位典藏の普查記録(観音村・海陸)は、暮らしの苦しかった早い時期には薄葬で約三年後に撿骨でき、定住してから改葬したので、多くの客家が移住の途中で先人の骨骸を背負って移ったと述べる
この記述の範囲: 台湾の客家(普查記録の「歷史源流」の記述)
- 骨灰罈(大型高腳)別名:金斗(臺灣客庄文化數位典藏の普查記録) 描述「歷史源流發展概況」
河源文明网の記事は、書物『客家古邑民俗』の紹介として、客家の厚葬は「背祖骨」と二次葬に表れ、離散と移住の中で祖先の遺骨を背負い、落ち着いた先で骨を拭って「金罂」に納めて葬り直したとする
この記述の範囲: 広東・河源の客家(記事が引く書物の説明)
- 客家人“二次葬”习俗 本文第3段(「而对于客家人“二次葬”的做法」で始まる段)
南方周末の調査報道は、2004 年 11 月末に湖南衡陽から福建龍岩へ出稼ぎに出た李紹為(61 歳)が、年末年始に病院で重篤となり死んだ同郷の左家兵の体を背負い、列車とバスを乗り継いで湖南へ帰ろうとし、広州駅で警察に見つかって止められたと伝える
この記述の範囲: 2004〜2005 年、福建龍岩→広州(湖南衡陽の出稼ぎ労働者)
- 南方周末:民工千里背尸返乡调查(全 7 頁) 1 頁目の冒頭の段と 3 頁目「千里背尸」の節
同報道は、一行が遺体を布団でくるみ白酒をまいて酔った人に見せかけて列車に乗せ、広州では金が足りず、遺体を木箱に入れるか編み袋で包んで車で運ぼうとしたところを巡回の警官に見とがめられたと伝える
この記述の範囲: 2004〜2005 年、福建龍岩→広州
- 南方周末:民工千里背尸返乡调查(全 7 頁) 3 頁目「千里背尸」の節
同報道は、李紹為が「連れて出た者は連れて帰る、生きていれば人を、死んでいれば屍を見せる」という考えで背負ったと語り、郷里の福龙村の 20 人余りの村人も、土葬の文化のもとでその行いを理解し賛成したと伝える
この記述の範囲: 湖南衡陽の福龙村(2005 年の取材)
- 南方周末:民工千里背尸返乡调查(全 7 頁) 5 頁目(李紹為の談話)と 7 頁目(福龙村の取材)
同報道は、遺体は広州の殯儀館で火葬され、死者の息子が骨灰の箱を胸の前の鞄に入れて両手で抱え、列車で郷里へ帰ったと伝える
この記述の範囲: 2005 年 1 月、広州→湖南衡陽
- 南方周末:民工千里背尸返乡调查(全 7 頁) 5 頁目の後半と 6 頁目