話
漢の馮貴人の墓(搜神記卷十五の一話)
資料の記述
墓を暴く(發冢・盜墓)は漢の馮貴人の墓(搜神記卷十五の一話)に現れる。『搜神記』卷十五は、漢の桓帝の馮貴人の墓を靈帝の時に盗賊が暴くと、七十年余りたっても顔色はもとのままで肉がやや冷たいだけだったので、賊らはその屍を犯し、争って殺し合ったことで事が露見した、と記す
この記述の範囲: 『搜神記』卷十五(漢の桓帝の馮貴人)
- 搜神記 第十五卷 搜神記 第十五卷、「漢桓帝馮貴人,病亡」で始まる段
漢の馮貴人の墓(搜神記卷十五の一話)は搜神記に収められている。
この記述の範囲: 『搜神記』卷十五(維基文庫の翻刻)
- 搜神記 第十五卷 搜神記 第十五卷、「漢桓帝馮貴人,病亡」で始まる段
『搜神記』卷十五の馮貴人の話は、墓が暴かれた後のことまで書く。のちに竇太后の一族が誅されると、馮貴人を桓帝と並べて祀ろうという案が出たが、下邳の陳公達が、貴人は先帝に寵愛された人ではあっても屍が汚されたので天子と並べるべきではないと論じ、竇太后を桓帝と並べて祀ることになった。
この記述の範囲: 『搜神記』卷十五(維基文庫の翻刻)の馮貴人の段の後半
- 搜神記 第十五卷 第十五卷、漢の桓帝の馮貴人の段の後半
『後漢書』卷五十六の陳球の伝によれば、熹平元年(172年)に竇太后が亡くなると、宦官の曹節・王甫らは太后を別に葬り、馮貴人を桓帝と並べて祀ろうとした。廷尉の陳球は朝廷の議で、馮貴人の墓はかつて暴かれ、骨は外にさらされ、賊とともに屍を汚されて魂も汚れたうえ、国に功も無いので、天子と並べるべきではないと述べ、公卿以下はみな陳球の議に従った。伝の注は、河南尹の段熲が馮貴人の墓を盗掘された責めで諫議大夫に落とされたと書く。
この記述の範囲: 『後漢書』卷五十六 陳球の伝と注(維基文庫の翻刻)
- 後漢書 卷五十六 張王種陳列傳 卷五十六 陳球の伝、熹平元年の竇太后の葬儀をめぐる議の段と、その注の四
『後漢書』卷六十五の段熲の伝は、段熲が執金吾から河南尹に移ったとき、盗賊が馮貴人の墓を暴いたことの責めを負って諫議大夫に落とされたと書く。元の胡三省は『資治通鑑』卷五十七の注で、段熲が延熹三年(160年)に朝廷に入って侍中となり、執金吾・河南尹へ移ったことから、墓が暴かれたのもその年に近いころだろうと推し量る。
この記述の範囲: 『後漢書』卷六十五 段熲の伝と、『資治通鑑』卷五十七の胡三省の注。『搜神記』は墓が暴かれたのを靈帝の時、死後七十年余りとする
- 後漢書 卷六十五 皇甫張段列傳 卷六十五 段熲の伝、京師に呼び戻されて侍中・執金吾・河南尹となる段
- 資治通鑒(胡三省音注)卷五十七 卷五十七 熹平元年の条、陳球の議の文に付けた注
『太平御覽』卷八百八は雲母の項で『東園秘記』を引き、雲母で屍を囲めば死者は朽ちないとして、国一番の美人だった馮貴人は亡くなって十年余りで墓を暴かれたが、姿はもとのままでただ冷たいだけだった、捕らえられた賊は貴人の棺に雲母が数斛(斛は升目の単位)あったと言った、と書く。明の李時珍『本草綱目』の雲母の項も、馮貴人の墓を暴いた賊が見た姿が生きているようだったのは、雲母で屍を囲んでいたためだとする。
この記述の範囲: 『太平御覽』卷八百八 珍寶部七 雲母の項の『東園秘記』の引用と、『本草綱目』金石之二 雲母の項。死後の年数は『搜神記』の七十年余りと違う
- 太平御覽 卷八百八 珍寶部七 卷八百八 珍寶部七、雲母の項の『東園秘記』の条
- 本草綱目 金石之二(卷八下) 金石之二、雲母の項の「時珍曰」の段
開けた墓・棺の屍が生きているよう(如生)は漢の馮貴人の墓(搜神記卷十五の一話)に現れる。『搜神記』卷十五は、漢の桓帝の馮貴人の墓を靈帝の時に盗賊が暴くと、七十年余りたっても顔色はもとのままで、肉がやや冷たいだけだった、と記す
この記述の範囲: 『搜神記』卷十五(漢の桓帝の馮貴人の段)
- 搜神記 第十五卷 搜神記 第十五卷、「漢桓帝馮貴人,病亡」で始まる段