考え方
魂魄
人の魂(こん)と魄(はく)。清の怪談『子不語』には、魂は善く霊で魄は悪しく愚かだとし、屍が動き回るのは魄の仕業とする説が出てくる。古い論の『論衡』は、魂が屍を生きた人のようにするという世の説を誤りだとする。
資料の記述
魂魄は閱微草堂筆記に見られる。『閱微草堂筆記』卷十は、屍が動く理由について、邪物が憑いたのか戻気に惑わされたのかと問いを立てた上で、袁枚の『新齊諧』が引く、人の魂は善く魄は悪しく、魂が去れば魄だけが残り留まるという考えを併せて紹介する(断定はしていない)。
この記述の範囲: 巻10のこの一節の範囲
- 閱微草堂筆記/卷10 閱微草堂筆記 巻10(同段落後半)
魂魄は論衡に関わる。王充は、死者の精魂は散って人の言葉を聞けず、たとえ形から離れて鬼となって傍に立っても、もう身体の中に戻って目を閉じさせたり口を開かせたりはできない、と論じる。精魂が形を立て直して屍を生きている人のようにするという世の説は誤りだとする。
この記述の範囲: 『論衡』死偽篇第六十三、荀偃の条の結び
- 論衡/63(死偽篇第六十三) 論衡 死偽篇「且死者精魂消索」から「誤矣」まで
臨終に子の手を放さなかった宦家の婦の条(閱微草堂筆記卷10)は魂魄に関わる。紀昀は、宦家の婦の姿について、狐魅が託したとする見方も一説として挙げつつ、狐魅なら人に近づくはずでそうしない点などから疑問を示し、恐らくは子への思いが極まって精霊が散らなかったのだろう、と推し量る。
この記述の範囲: 『閱微草堂筆記』卷10、宦家の婦の条の結び
- 閱微草堂筆記/卷10 閱微草堂筆記 卷10 同条の結び「或疑為狐魅所托」以下
魂魄は南昌士人(子不語卷1)に関わる。「南昌士人」の結びで「識者」は、人の魂は善く霊で魄は悪く愚かだとし、死者が来たときは一点の霊が残っていて魄が魂に付いて動いたが、心残りの事が済むと魂は散って魄だけが滞った、魂があればその人だが魂が去ればその人ではない、世の屍が動き回るのはみな魄の仕業で、道のある人だけが魄を制せる、と説いたと記す。
この記述の範囲: 『子不語』卷1「南昌士人」の結び(識者の言として)
- 子不語 卷1 子不語 卷1「○南昌士人」末段「識者曰」
強死・凶死・枉死(非業の死)は魂魄に関わる。子產は、伯有がなお鬼となれるかと問われ、人は生まれてまず魄ができ、その陽を魂といい、物の精を多く用いれば魂魄が強くなるとし、ふつうの男女でも強死すればその魂魄は人に憑いて淫厲をなし得る、まして三代にわたって政を執った家の伯有が強死したのだから鬼となるのは当然だ、と答えた。
この記述の範囲: 『春秋左氏傳』昭公七年の傳、子產の言
- 春秋左氏傳/昭公 春秋左氏傳 昭公七年 傳「及子產適晉.趙景子問焉」の段