文献
右臺仙館筆記
清の俞樾の筆記。序で、平時に見聞きした怪異を集めた書だと自ら述べる(維基文庫の翻刻による)。
資料の記述
慈溪西門外の僵屍(右臺仙館筆記卷六)は右臺仙館筆記に現れる。慈溪の西門の外の僵屍の話は、『右臺仙館筆記』卷六で、墨線を論じる一段のすぐ後に続けて記される。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷六(維基文庫の翻刻)
- 右臺仙館筆記/卷06 右臺仙館筆記 卷六、維基文庫の編集用の本文で 43 行目の段落(「木工石工所用之墨線」で始まる段)
『右臺仙館筆記』の序で俞樾は、己卯の年(1879年)の夏に妻の姚夫人を亡くし、その冬に杭州の右臺山に葬って自分の墓も隣に作り、そばに建てた三間の家を「右臺仙館」と名づけたと書く。序に付けた「異聞を求める知らせ」では、自分は六十歳になったと言い、怪しく珍しい話を一人十話ほど書いて送ってほしいと、学者たちに頼んでいる。
この記述の範囲: 維基文庫の目次頁に載る序と、附録の知らせの範囲。己卯を1879年とするのは干支からの換算
- 右臺仙館筆記(目次頁と序) 目次頁の「序」と、その後の附録(徵求異聞啟)
キョンシー(僵屍・殭屍)は右臺仙館筆記に現れる。『右臺仙館筆記』卷四は、戦乱のあとの金陵(今の南京)で、ある高官が得た空き地から棺が二十余り掘り出され、一つには衣は灰になっていたが肌が白く潤って頬の白粉も残る女の屍、一つには座ったまま横にならない男の屍、もう一つには上半身に獣の毛、下半身に鳥の羽が生えた僵屍があった、と記す。高官は棺をほかへ移して葬らせ、開けて見ることを禁じた。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷四の一条(維基文庫の翻刻)。戦乱のさなかに急いで葬られた棺だと本文は推している
- 右臺仙館筆記 卷04 右臺仙館筆記 卷04、「金陵自遭兵燹後」で始まる条
キョンシー(僵屍・殭屍)は右臺仙館筆記に現れる。『右臺仙館筆記』卷五は、湖北の咸寧の村で、未婚のまま人と通じた毛家の娘が、怒った父母に殺されて野に埋められ、僵屍になって行く人を追ったので掘り出して焼いたが、僵屍を焼くときは魚網をかぶせれば屍も鬼も滅びるという俗説にそのときは思い至らなかったため、その鬼が「毛家姑媽」と呼ばれ、色白で姿の整った家の若い男女に取りついて死なせる祟りを、数十年のあいだ続けた、と記す。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷五の一条(維基文庫の翻刻)。直前に俞樾の長男の嫁が語る咸寧の怪しい出産の話があり、同じ段に続けて書かれる。この毛家の娘の話そのものを嫁から聞いたかどうかは、本文に明記がない
- 右臺仙館筆記 卷05 右臺仙館筆記 卷05、「湖北咸寧鄉間有毛氏女」で始まる段
奚呆子の發冢(右臺仙館筆記卷四の一条)は右臺仙館筆記に収められている。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷四(維基文庫の翻刻)
- 右臺仙館筆記 卷04 右臺仙館筆記 卷04、「奚呆子,鄂人也」で始まる条
塀・木・梯子・水(僵屍が越えられないとされる高さと水)は右臺仙館筆記に現れる。『右臺仙館筆記』卷六の金陵の大悲庵の話では、棺から出た白い衣の僵屍に追われた吳という塾の先生が、僵屍は溝を越えられないだろうと考えて窪地に逃げたが、屍は穴も谷も平地のように越えてきた。吳が楼に駆け上がって倒れると、翌朝、屍は梯子の途中に立ったまま動かなくなっていた。本文は、僵屍は高い所へ登るのが苦手で、夜通しかかって梯子の半ばまで来たところで夜が明け、強まった陽の気のために立ちすくんだのだろう、と推す(推しているのが誰かは書かれていない)。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷六の一条。屍が溝を越えた場面と、梯子の上で止まった理由についての推測(語り手の言い方で、誰の推測かは明記がない)
- 右臺仙館筆記/卷06 右臺仙館筆記 卷06、「金陵小倉山後有大悲庵」で始まる段
苕帚(走屍を打ち倒す道具)は右臺仙館筆記に現れる。『右臺仙館筆記』卷六の金陵の大悲庵の話では、塾の先生を追って楼の梯子の途中に立ったまま止まっていた白い衣の僵屍を、集まった人々が長い竿の先に箒を縛りつけて打つと、屍は倒れた。人々は、また起き上がるのを恐れて、竿秤のおもりを屍の胸に載せた、と記す。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷六の一条(維基文庫の翻刻)
- 右臺仙館筆記/卷06 右臺仙館筆記 卷06、「金陵小倉山後有大悲庵」で始まる段の中ほど(「以長竿縛帚撲之」の文)
金陵永福庵の婦の柩(右臺仙館筆記卷六)は右臺仙館筆記に現れる。『右臺仙館筆記』卷六の一条。話の主は金陵(今の南京)の永福庵の老僧の長齡で、若いころは乱暴者で、親が決めた妻との婚礼の夜に塀を越えて逃げ、酒の上で人を殺して逃れた先で僧になり、のちにひそかに故郷へ戻って永福庵に住んだ。病で死にかけた妻は、法事に呼んだ僧が夫だと知ると、結納の指輪を投げ返し、四十九日のあいだ大悲懺(観音菩薩に罪を悔いる法会)を勤めることと、自分の柩を庵に置くことを求め、聞かなければ祟ると言い残して死んだ。柩が庵に置かれると、夜ごと女が柩から出て長齡のもとに通い、庵の道人が石工の墨繩(墨を含ませて線を引く糸)を柩の上で弾いて鎮めた。話は、太平天国の乱で金陵が落ち、戻ると庵は壊されていたので長齡は鼓樓の善司廟に住み、同治三年(1864年)にも八十歳の長齡を見た人がいた、と結ぶ。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷六「金陵永福庵一老僧曰長齡」で始まる条の全体。本文は太平天国の乱を、広東・広西から起こった賊(粵寇)の乱と呼ぶ
- 右臺仙館筆記/卷06 卷六「金陵永福庵一老僧曰長齡」で始まる条の前半と末尾
揚州左衛街の女屍(右臺仙館筆記卷四の一条)は右臺仙館筆記に現れる。『右臺仙館筆記』卷四の一条。揚州の左衛街の大きな屋敷は、乱のときに賊の大頭目が拠って役所にしていた所で、乱が収まって別の家が住むと、雨の日ごとに堂の前の地に女の姿が現れ、洗っても消えず、晴れると見えなくなった。女の屍が掘り出されて焼かれたあと、隣に住む皮細工の老人が、自分も賊に捕らわれてこの頭目の配下にいたと言い、頭目は捕らえた女を辱めようとしたが、女は罵って従わず、数百回打たれても罵りをやめなかったので生き埋めにされた、と語った。書き手の俞樾は、老人が女の姓を挙げられず、顕彰できないことを惜しむ。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷四「揚州左衛街一大宅」で始まる条の本文
- 右臺仙館筆記 卷04 卷四「揚州左衛街一大宅」で始まる条の冒頭と後半
金陵の廃地から出た棺(右臺仙館筆記卷四の一条)は右臺仙館筆記に現れる。『右臺仙館筆記』卷四の一条。書き手は、兵乱のあとの金陵(今の南京)では、城の中の住まいから棺が掘り出されることがよくあり、どれも乱のさなかに急いで葬ったものだった、と話を始める。ある高官が手に入れた空き地は王府の庭の傍らにあり、瓦礫が山のように積まれていたので、兵に平らにさせたところ、棺が二十余り出てきた。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷四「金陵自遭兵燹後」で始まる条の冒頭
- 右臺仙館筆記 卷04 卷四「金陵自遭兵燹後」で始まる条の冒頭
キョンシー(僵屍・殭屍)は右臺仙館筆記に現れる。『右臺仙館筆記』卷五の毛家の娘の話の続きで、人々が各村に廟を立てても祟りはやまず、咸寧の県令が怒って廟をすべて壊し、江西の真人府(道教の天師の家の役所)まで出向いて、神に命じて鬼を縛る術を求めると、それから少し静まった、と書く。そのときまでに祟りはすでに数十年続いていた。太平天国の乱のあとにまた現れたが、前ほどひどくはなかった。
この記述の範囲: 『右臺仙館筆記』卷五(毛家の娘の話の後半)
- 右臺仙館筆記 卷05 卷五、毛家の娘の話の後半(第54段落)