研究所の創作 短編集
一本の線香
民国の初め / 湖南、沅水沿いの小さな川港の町
同じ川 半拍の鼓(清の末、沅水の宿場町)・碗の跡(沅水へ注ぐ支流のほとりの町)この世界の基本 息と足の裏・義荘と土地の神・香・鈴と拍・死者と屍・水と匂い
本文の ◦ の印には、この世界の基本の短い説明が付いています。小さな番号は欄外解説で、その場面の決まりの細部や、ほかの話とのつながりを説明します。画面が狭いときは、印や番号を押すと開きます。この世界の基本
民国と年号が改まって、まだ三年目の秋のことでございます。沅水(げんすい)のほとりのその町では、大人たちが辮髪(べんぱつ)を切るか切らぬか1民国になっても、送る死者の辮髪は切りません。生きていた姿のまま帰すのが送る仕事の決まりです。先に髪を切った者が死ねば、家の者は切った辮髪を紙に包み、死装束の懐に入れます。でもめておりましたが、子どもたちには、もっと大事なことがございました。夜、川下から鈴の音が上ってきた2堤の道を来る鈴は、川面に跳ね返って、実際より近く聞こえます。子どもたちが鈴を聞いてから草むらへ走っても間に合うのは、そのためです。この世界では葬送師が鈴を鳴らすと、魂の残る死者は呼びかけに応えて自分で跳ぶ。鈴と足音が刻むリズムが「拍」。足音で鈴に応えるのが「返り」で、返りが夜ごとに遅れてゆけば、魄が強まった印。基本 → 鈴と拍とき、誰がいちばん長く息を止めていられるか、でございます。
送られる死者この世界では死んだ人には、心にあたる魂(こん)と、体に残る魄(はく)がある。魂が残るうちは「死者」で、鈴で呼べば応えて歩く。魂が抜けて魄だけになると「屍」で、人を襲う。基本 → 死者と屍の列は、月に一度か二度3川港の町は、下流の町から山の村へ帰る死者の通り道です。月に一、二度はふつうの数で、秋の出水のあとと、正月の前には数が増えます。、町の裏の堤を通りました4送る一行は町なかを通らず、堤や裏道を選びます。人の多い所は陽気(生きた体の温み・気配)が強く、拍が乱れるからです。川港の町では堤の道が一行の道になり、通る夜は堤の家が灯を落とします。。先頭に鈴と碗(わん)を持つ葬送師、しんがりに札を持つ道士、そのあいだを、両足を揃えた死者たちが、鈴の拍に合わせてとん、とん、と跳ねてまいります。鈴が聞こえたら、子どもたちは堤の草むらに腹ばいになり、足の裏を川の方へ向けて、息を止めます5腹ばいになって足の裏を川へ向けるのは、堤の道を通る列に足の裏を見せないためです。息を止めた上に足の裏も背ければ、屍には、そこに人がいないのと同じ。祖母たちの教えは、大人の用心をそのまま子どもの遊びにしたものです。同じ場面 → 一筆記録 → 『聊齋志異』の「尸變」を読むこの世界では屍は、生きた人の陽気(体の温み・気配)で人を見つける。陽気がいちばん多く出るのは息、次が足の裏。息を止めて足の裏を屍に向けなければ、屍にはそこにいる人が見えない。基本 → 息と足の裏。祖母たちがそう教えたやり方で、遊びの決まりもそこから来ておりました。列が通り過ぎ、鈴が聞こえなくなるまでに、先に息を吐いた者が負けでございます。

いちばん強いのは、油屋の鉄蛋(てったん)6鉄蛋は「鉄の卵」。丈夫に育つようにと付ける幼名で、湖南の町には一つの通りに一人はいました。阿禄の「禄」は、暮らしに困らないようにという願いの字です。でございました。鉄蛋は息を止めると、顔が熟れた柿の色になり7大人が屍をやり過ごすとき、息を止めるのは目の前を通るあいだの数十拍です。鈴が聞こえなくなるまで止め続ける決まりは、子どもの遊びにしかありません。、それからだんだん茄子(なす)の色になりました。茄子の色になっても吐かぬので、ある晩など、そのまま草むらを転がって田の水に落ちたことがございます。それでも鉄蛋は、泥を噛んだまま、鈴が遠のくまで息を吐かなかったそうで、子どもたちは今でもそれを、たいへんな手柄として語っておりました。
いちばん弱いのは、渡し守の子の阿禄(あろく)でございました。阿禄は数を十も数えないうちに、ぷう、と吐いてしまいます。吐くと負けで、負けると笑われ、笑われると泣きます。泣くとなおさら息が続きません。阿禄の負けは、いつもこの順番で決まっておりました。
負けた者には、罰がございました。列が通ったあと、堤の外れの土地公(とちこう)の小さな祠8湖南の町では、土地公を「土地爺」とも呼びます。祠は堤の外れや辻にあり、送る一行は祠の前で鈴を低く振って、預かりの神に断りを入れて通る。辻や橋で撒く紙銭は、土地公に束ねられた道ばたの者たちへの通り賃で、祠そのものには銭を置きません。基本 → 義荘と土地の神同じ場面 → 一筆この世界では義荘は、旅の死者を預かる町はずれの小屋。土地の神(土地公)は、死んだ人の魂を三日のあいだその土地に留めて預かり、故郷へ帰れなかった者たちも預かる。基本 → 義荘と土地の神(ほこら)へ、一人で線香この世界では死者は飯を食べず、香の煙を糧にする。煙は魂の残る死者の方へ折れて吸われ、吸う者がいなければまっすぐ昇る。香が絶えると、魂が早く薄れる。基本 → 香を上げに行くのでございます。死者の通ったばかりの道を一人で歩くのは、子どもにはなかなかの肝試しでございました。線香は負けた者が自分の銭で買います。阿禄の家は貧しいので、母親は一本きりを持たせ、「一本でも、心をこめれば土地公さまには足りる9土地公の祠には、線香は一本で足ります。道ばたの小さな神なので香炉も小さく、三本立てれば灰がこぼれる。町の子は、祠に上げる一本を「土地公の一本」と呼びます。」と申しました。阿禄は月に何度も負けますので、この町の土地公は、どの家の線香よりも阿禄の線香をよく知っていたはずでございます。
その晩も、阿禄は負けました。七つまで数えたところで、草の穂が鼻をくすぐったのでございます。鉄蛋たちの笑い声を背中に聞きながら、阿禄はべそをかいて、一本の線香を握りしめ、堤を歩いてまいりました。
ところで、その晩の列には、一つ乱れがございました。堤の下の豚肉屋が、犬をしまい忘れていた10一行の通る晩に犬をしまい忘れた家は、明くる日、線香を一束持って町の年寄りの所へ詫びに行きます。詫びの線香は、年寄りが次の一行の通る晩に祠へ上げます。この決まりの要 → 揃わない列同じ場面 → 半拍の鼓のでございます。犬が吠え立て、鈴の拍が一つ崩れました。葬送師はすぐに鈴を振り直して列を揃えましたが、いちばん後ろの、いちばん軽い一人11列は重い者を前に、軽い者を後ろに並べます。軽い体ほど拍の乱れで浮きやすく、後ろなら道士の目と札が届く。子どもの死者は、たいていしんがりです。が、その一拍のあいだに、葦(あし)の方へ跳ねて外れてしまいました。葬送師は、自分の鈴が乱れたとは決して申さない12列を外れた死者があれば、葬送師は帳面に「外れ」と書き、理由を添えます。理由の欄は、犬・風・人の三つでたいてい足りる。「鈴」と書いた葬送師の帳面は、まだ見つかっていません。人でございました。乱れたのは犬だ、と申して、残りの死者をまず義荘(ぎそう)へ入れ13習わしの理由外れた一人を追うより、残りの列を先に墨線の内へ入れるのが決まりです。追うあいだに残りの拍が乱れれば、外れる者が増える。外れた死者は遠くへは行けず、たいてい水際で止まります。基本 → 水と匂い、それから探しに戻ることにいたしました。
阿禄が祠の前に着いたとき、川べりに、小さな白いものが立っておりました。
阿禄と同じくらいの背の子どもでございます。ありふれた死装束を着て、首から、窯場(かまば)の組合の焼き印を押した木札(きふだ)14窯場の組合は、見習いの子にも大人と同じ木札を作ります。板の厚みも大人と同じで、子の首に下げると胸の半ばまで届く。組合の中では、見習いも一人の窯の者として数えるからです。同じ場面 → 草鞋の数を下げておりました。額には黄色い札が結んであり、両の足首は麻の紐で揃えて結ばれております。その子は川の方を向いて、じっと向こう岸を見ておりました15川港の町の葬送師は、外れた者を探すとき、まず堤の下の葦の際を提灯で照らして歩きます。水際で止まった死者は帰る土のある岸の方を向いて立つので、向いている岸で、どこの子かの見当もつきます。同じ場面 → 六枚目の札この世界では死者は自分の足では水を越えられない。川は舟に青い札を留めて渡り、海は棺に納めて船で運ぶ。術のあいだは体の腐りが止まり、術が解けると、止まっていた日数ぶんの匂いが一度に出る。基本 → 水と匂い。向こう岸の、ずっと上の方に、この子の帰る家があったのでございましょう。

阿禄は息を止めようといたしました。けれども、泣いたあとの鼻はぐずぐずと鳴り、胸はひくひくと動いて、とても止まるものではございません。そのうえ驚いて尻もちをついたので、両の足の裏は、きれいにその子の方を向いておりました。
白い子は、ゆっくりとこちらへ向き直りました。
阿禄は、もう少しで大声を上げるところでございました。けれども、札の下の顔を見て、声が引っ込みました。その子は、ちっとも怖い顔をしていなかったのでございます。ただ、道に迷った子が、知っている大人の背中を見つけたときのような顔をしておりました。そうして、とん、と一度だけ跳ねて、阿禄の前に来て止まりました。首の木札が、胸のところで、こと、と鳴りました。
近くで見ると、その子の袖は川霧に湿り、かすかに、酸っぱいような匂い16子どもの戻り(術が緩んで、止まっていた腐りが戻り始めること)の匂いは、大人の甘さと違って酸っぱく来ます。列を外れた死者は碗の場(列の拍の映る水面)から切れて、札の結びだけで立っている。体が小さいので、外れたその夜のうちに戻り始める。戻り始めのうちなら、煙一本で止まります。基本 → 香同じ場面 → 伽羅の箱がいたしました。阿禄は、夕飯を食べそこねた弟が夜中に起きてくるときの顔を思い出しました。そして、なぜだか、この子はお腹が空いているのだ、と思ったのでございます。
阿禄は手の中の線香を見ました。一本きりでございます。土地公さまのぶんでございます。上げずに帰れば、明日、鉄蛋たちに何を言われるか分かりません。阿禄はしばらく考え、祠の方へ「ごめんなさい、あとで」と小さく頭を下げてから、祠の灯明で線香に火をつけ17堤の外れの祠の灯明は、堤の家々が十日ずつの回り番で油を足します。灯明の消えている祠は、その番の家が怠けた印で、すぐ町じゅうに知れます。、その子の前の石の割れ目に立てました。
細い煙が、一筋立ちのぼりました18石の割れ目に立てた一本は、風の無い夜なら、まず一筋にまっすぐ立ちます。折れるのは、顔を寄せた死者の方へ。阿禄の線香が折れたのは、その子に魂が残っている印で、屍の前なら煙は折れずに昇るだけでした。基本 → 香同じ場面 → 伽羅の箱。その子が顔を寄せると、煙はふっとその子のほうへ折れました。その子は、長いこと、じっとしておりました。阿禄は、その隣に膝を抱えて座りました。怖くなると洟(はな)をすすり、すするたびにその子がこちらを見るので、阿禄はしまいには少し笑いました。線香が半分ほど燃えたころには、あの酸っぱい匂いは、いつのまにか消えておりました。
堤の向こうから、鈴の音が近づいてまいりました。
葬送師は、頬のこけた、口をへの字に曲げた男でございました。煙の立つ石と、並んで座っている二人を見ると、男は一度だけ、短く低く鈴を鳴らしました19外れた一人を呼び戻すときは、鈴を一度、短く低く打ちます。応えがなければ、少し場所を変えてまた一度。同じ所で重ねて打つと、死者はどちらへ跳べばよいか迷います。基本 → 鈴と拍。白い子は、その鈴にすぐに応えて、とん、と跳ねました。遅れもせず、それでいてほんの少し揺らいで、呼ばれた子が振り向くような跳び方でございました。
男は鼻をひくつかせてその子の袖を嗅ぎ、それから阿禄の顔を見ました。
「線香をやったのか」
阿禄が、叱られると思って縮こまりながらうなずくと、男は「犬のせいだ」とだけ申しました。何が犬のせいなのか、阿禄には分かりませんでした。男は懐から銅銭を一枚出しかけて20民国の初めの町では、穴のあいた古い銭と、穴の無い新しい銅貨が一緒に使われていました。新しい銅貨一枚は古い銭の十文に当たる。子どもの手に渡すには、少し大きすぎる銭です。、それをまた仕舞い、代わりに腰の袋から線香を一本抜いて21葬送師は腰の袋に、帳面の本数より一本多く線香を入れて歩きます。その一本は帳面に書かない決まりで、たいてい土地公か、道で行き合った誰かの手に渡ります。、阿禄の手に握らせました。「土地公のぶんだ」と申しました。それから鈴を振り、白い子を連れて、堤の闇へ帰ってゆきました。
阿禄はその一本を祠に上げ、走って家に帰りました。
あくる日の昼までに、この話は町じゅうの子どもが知っておりました。死者に見つかった、というところよりも、死者に見つけてもらった、というところが、なぜだか子どもたちの胸に残ったのでございます。いちばん面白くなかったのは、鉄蛋でございました。
一行は昼を義荘で休み、次の晩、堤を川上へ進み、渡し場から川を越える22死者を渡すのは、客の絶えた夜更けの最後の一回です。渡し守の家では、その夜は子どもを早く寝かせ、舟の床を水で流して待つ。渡し守の子の阿禄は、一行の鈴の刻限を、町の誰よりよく知っていました。基本 → 水と匂いことになっておりました。鉄蛋はその晩、誰よりも早く堤へ出て、あの祠の前の、いちばん目立つ石の上に座りました。手には、油屋の店先から持ち出した線香23川港の油屋は、桐油や菜種の油と一緒に、線香と蠟燭も売ります。どれも火に使う品なので、一つの店に並ぶ。鉄蛋の一束は、店の棚からそのまま抜いてきたものでした。を、一束握っております24線香の一束は五十本で、二百文します。送る一行の香なら、一人を十六夜あまり養える量です。火をつける隙の無かった一束は、明くる朝、油屋の棚に戻りました。同じ場面 → 草鞋の数。
鈴の音が近づいてくると、鉄蛋は、いつもの癖で、胸いっぱいに息を吸い込みました。そうして、見事に止めたのでございます。顔は柿の色になり、やがて茄子の色になりました。
列は、鉄蛋の前を、ひとつも乱れずに通り過ぎてゆきました。
誰も、鉄蛋の方を向きませんでした。鉄蛋はこの町でいちばん息の続く子でございましたから、死者には、石の上に誰もいないのと同じだったのでございます。鉄蛋は茄子の色のまま、一束の線香に火をつける隙もなく、ただ蚊に食われておりました。
阿禄は、少し離れた草むらにおりました。遊びの決まりどおり腹ばいになり、足の裏を川へ向けておりましたが、息は止めておりませんでした。止めようとも、いたしませんでした。泣いてはおりませんでしたが、洟は、やはり少しすすっておりました。
列のいちばん後ろの、いちばん小さな一人が、阿禄の前を通るとき、ほんの半拍だけ、跳ぶのが遅れました25列の前を歩く葬送師は、後ろの者の遅れを、振り返らずに鈴の返りで聞きます。一度きりの遅れなら、次の拍の頭をほんの少し待って打つ。それで列は、歩みを止めずに揃い直します。。先頭の鈴は、それを咎めるでもなく、次の拍で、そっと揃えてやったそうでございます。
その晩の負けは、もちろん阿禄でございました。
この話は、研究所の設定をもとにした創作で、史実ではありません(短編集について)。