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研究所の創作 短編集

一筆(ひとふで)

明の末 / 江南の水郷の町と、徽州の山あいの村

つながる話 草鞋の数(銭の足りない一行が草鞋を減らす)・碗の跡(碗を土に置かない決まりが要になる)この世界の基本 碗の符水・銭・水と匂い・送る二人・鈴と拍・香

本文の ◦ の印には、この世界の基本の短い説明が付いています。小さな番号は欄外解説で、その場面の決まりの細部や、ほかの話とのつながりを説明します。画面が狭いときは、印や番号を押すと開きます。この世界の基本

江南の水郷の町に、汪(おう)という質屋がございました。十二の年に徽州の山から下りてきて、五十年のあいだ、同じ石橋のたもとで質札を書いてきた男でございます。

汪のけちは、町の子供でも知っておりました。蠟燭(ろうそく)は火を点ける前に物差しで長さを測り1江南の質屋の帳場の蠟燭は、煤の少ない木蠟を使います。質草の絹に煤が移ると値が落ちるからで、一本十二文と、線香の三倍します。汪の帳面の燃え残りの欄は、分(ぶ)の単位まで書いてありました。、朝になると燃え残りを帳面に付けます。軒下の雀がこぼれ米をついばんでも、雀は追いません。米をこぼした小僧を叱るのでございます。利息は一日遅れても取り、質草(しちぐさ)は一日過ぎれば売りました2質屋の帳面では、期限の過ぎた質草を「流れ」と書きます。町の質屋はふつう、流れても十日は棚に置いて持ち主を待つ。汪の帳面の流れの日付は、どれも期限の翌日でした。。帳面は四十冊を超え、どの頁を開いても、一文の狂いもなかったと申します。

ただ一か所だけ、墨の線で消した行3質屋の帳面は、書き損じても消さず、脇に朱で直すのが決まりです。墨の横線は書き損じの印ではなく、その行の貸しを帳消しにした印。五十年の帳面で、墨の線はこの一本きりでした。がございました。

三十年あまり前の梅雨のことでございます。舟荷を担ぐ若い人夫が、熱を出して寝つきました。薬を買う銭がなく、たった一枚の藍(あい)の上着4担ぎ人夫は、故郷へ帰る日の上着を仕事着と分けて一枚だけ持ちます。藍で三度染めた厚手の木綿で、質に入れればおよそ百文。袖を通していない上着は、質屋でも一割高く見ます。を汪の店へ入れました。故郷へ帰る日に着るつもりで、袖も通さずにしまっていた上着でございます。人夫はそのまま起きませんでした。

担ぎ仲間が銭を出し合い5江南の担ぎ人夫の組は、一人が月に十文ずつ積む帰郷の講を持っています。講の銭で出せるのは送る二人の謝礼まで。服や棺や質草の請け出しは、仲間がその場で袖から出すほかありません。同じ場面 → 半拍の鼓、亡骸を故郷へ送ってもらうことになりました。けれども集まった銭は、葬送師この世界では死者を送るのは二人組。前を歩く葬送師は、鈴で死者を呼び、碗の符水で眠らせ、墨斗で屍を止める線を打つ。後ろを歩く道士は、札で死者を結び、屍を封じ、雷で弱らせる。基本 → 送る二人と道士の二人を雇うので尽きてしまいます。上着を請け出す分は残りませんでした。仲間の一人が質札を握って、汪の店の格子の前に立ちました。「あいつを、あの上着で帰してやりてえ6仲間の銭で送られる死者は、官服を着ず、死装束のまま帰ります。ただ、生前の晴れ着を一枚、死装束の上に重ねるのは差し支えありません。重ねてならないのは、自分で代を払った印の官服だけです。基本 → 銭同じ場面 → 鶴の胸。銭はあとで、必ず」

汪は質札を受け取り、しばらく黙って見ておりました。質札には、質に入れた者の名と在所7江南の質屋の主は、多くが徽州の山の出です。十二、三で山を下りて店に入り、同郷の者を番頭に取る。質札に在所まで書かせるのは、流れた質草の持ち主を探すためです。が書いてございます。徽州の、楓渓(ふうけい)という村の名でございました。

汪は何も申しませんでした。帳面を開き、筆に墨を含ませて、その行に横へ一本、線を引きました。それから蔵へ入って藍の上着を出し、紙に包み、紐をかけて格子から差し出しました。質札は受け取らず8習わしの理由質草を請け出すときは、質札を店に返し、店は札を帳面の行に貼って閉じます。汪が質札を受け取らなかったのは、これが請け出しではないからです。行は墨で消してある。銭を受けていない店が札を取れば、帳面の外で銭を受けたのと同じになる。、上着に添えて押し返しました。

雨の日の質屋で、汪が横線を引いた帳面に筆を止める。格子越しに上着の包みと質札を返し、外の男が見つめる。
梅雨の質屋の帳場。帳面に一本の横線を引いた汪が、格子越しに包みと質札を返す(想像図)

「包みの紙と紐で、二文」9包みの紙は一枚一文、麻の紐は一本一文。汪の言った二文は、町の相場どおりでした。汪の店の帳面で、包みの代を取り損ねた行は、五十年で一つも見つかっていません。

仲間の男は、しばらく口が開いたままでございました。それでも二文を払い、上着を抱えて帰りました。若い人夫はその上着を着て、鈴この世界では葬送師が鈴を鳴らすと、魂の残る死者は呼びかけに応えて自分で跳ぶ。鈴と足音が刻むリズムが「拍」。足音で鈴に応えるのが「返り」で、返りが夜ごとに遅れてゆけば、魄が強まった印。基本 → 鈴と拍の音について山へ帰っていったのでございます。

あとで小僧が、なぜあの一行だけ消したのかと聞きました。汪は算盤(そろばん)から目を上げずに答えました。「死人に催促しても、利は取れん。死人の上着は、売っても買い手がつかん。帳面の上の損を、帳面の上で片づけただけだ」小僧は、そういうものかと思いました。町の者も、そういうものだろうと思いました。

それから三十年あまりたった冬、汪は死にました。遺言は一行きりで、「楓渓へ送れ」10よそで財を成しても、郷の土に葬られなければ魄(魂が抜けたあとも体に残るもの)は眠りません。徽州の商人の遺言は、店のことより先に村の名を書きます。村の名さえあれば、葬送師は家の土を探せるからです。基本 → 育つ記録 → 旅の死者を故郷へ帰すとだけございました。

店と帳面を継いだのは甥でございます。甥は叔父の算盤といっしょに、叔父の心得まで受け継いでおりました。値の張る正規の葬送師と道士の組11江南から徽州の山まで、一人を二十日あまりで送ると、正規の組の見積もりはおよそ十八貫、橋の下の潜りなら八貫です。潜りの見積もりには、予備の欄と、着いてからの欄がありません。同じ場面 → 草鞋の数この世界では死者を故郷へ送るには銭がかかる。払える額で、正規の組か、潜り(正規でない安い組)か、その夜だけ雇う術者かが決まる。官服を着た死者は、自分で送る代を払える者。基本 → 銭は、話を聞いただけで断りました。雇ったのは、橋の下で客を待っている潜りの二人組12潜りの組は看板を出せないので、町の石橋の下の船着きの石段で客を待ちます。鈴の柄に白い布を一本結んでおくのが、客待ちの印です。昼は荷の積み下ろしの日雇いをしていることが多い。でございます。名を書いた銘旌(めいせい)の旗13銘旌は一行の手形で、紅い布と書き代でおよそ二百文です。旗の無い一行は、宿で死者一人につき百文の保証の銭を求められる。銘旌を惜しんだ二百文は、たいてい二晩目の宿で払い直すことになります。同じ場面 → 鶴の胸記録 → 旅の死者を故郷へ帰すは、「叔父は名を売って歩く人ではなかった」と言って作らせません。銘旌の無い一行は宿ごとに保証の銭を取られますが、甥はそれを、翌朝には戻る銭だと申して、帳面に付けませんでした。道に撒く紙銭は半分に減らし14紙銭は、道ばたにいる帰れなかった死者への通行料です。少なければ、その死者たちが列に寄って、額の札(死者の額に結ぶ札)の効きを乱す。正規の一行は辻と橋と峠ごとに撒くので、道が長いほど紙銭の代もかさみます。基本 → 義荘と土地の神同じ場面 → 一本の線香、夜ごとの線香は三本を一本にしました15正規の一行は、一人一夜三本の線香を焚きます。一本四文ですから、二十二夜で浮くのは百七十六文。線香一本は一刻半ほどで燃え尽きるので、一本きりの夜は、宵の煙が夜半を待たずに絶えます。基本 → 香同じ場面 → 伽羅の箱この世界では死者は飯を食べず、香の煙を糧にする。煙は魂の残る死者の方へ折れて吸われ、吸う者がいなければまっすぐ昇る。香が絶えると、魂が早く薄れる。基本 → 香。川を越す青い札の代16青い札は藍で染めた紙に朱で書き、一枚百五十文と、額の札より高い札です。川一つに四枚で六百文。水の上で一枚でも欠ければ、舟の上の死者は水の方へ引かれるので、潜りの道士も、額の札とこれだけは値切らせません。基本 → 水と匂い同じ場面 → 封の家だけは、さすがの甥も値切れませんでした。道士が「札を惜しめば、川の真ん中で沈みますぜ」と申したからでございます。

こうして汪は、ふつうの死装束に、揃えて結んだ足で、鈴の音について夜の道を跳ねてゆきました。

旅の初めは静かなものでございました。術の効いているあいだ、死者は匂いませんこの世界では死者は自分の足では水を越えられない。川は舟に青い札を留めて渡り、海は棺に納めて船で運ぶ。術のあいだは体の腐りが止まり、術が解けると、止まっていた日数ぶんの匂いが一度に出る。基本 → 水と匂い。一行から匂うのは、符水(ふすい)と墨と、濡れた草鞋(わらじ)と、細い一本の線香の煙ばかり17潜りの一行は香が細いので、一行の匂いは、道士の墨と濡れた藁のものになります。その藁は一重底の安草鞋で、雨の夜には半夜で底が抜ける。二重底の草鞋と三本の香の正規の一行なら、藁より香の煙が勝ちます。同じ場面 → 草鞋の数でした。山へかかった十九日目の夜、鈴を振った潜りの葬送師は、汪の跳ねる拍が鈴の音からわずかに遅れるのに気がつきました。風下へまわると18戻り(術が緩んで、止まっていた腐りが戻り始めること)の匂いは、まず風下に来ます。葬送師は拍の遅れに気づくと、列の風下へ回って鼻で確かめる。熟れすぎた果物のような甘い匂いが混じれば、魂が薄れて術が緩みかけている印です。同じ場面 → 伽羅の箱、止まっていたはずの匂いが、かすかに戻ってきております。

「急ごう」と葬送師は申しました。道士は、残りの線香の数を指で数えて19潜りの請け書では、香を「一夜一本、二十二本」と本数で書きます。道中で買い足せば、その銭は二人の謝礼から出る。道士が指を折ったのは、汪の魂より先に、自分の取り分を数えたのかもしれません。おりました。

一行が楓渓に着いたのは、それから三日目の夜更けでございました。鈴の音を聞いて、村の家々は犬を小屋へしまいました20習わしの理由犬の声が拍を乱すのは、鈴と足音の刻む間に吠え声が割りこむと、死者が次の拍をどこに置けばよいか迷うからです。山の村では、鈴が聞こえたら犬を小屋に入れ、戸を閉め、鈴が遠のくまで開けません。この決まりの要 → 揃わない列。それでも一軒の犬がしまい遅れて吠えたて、汪の拍はまた乱れました。戸の隙間から覗く子供たちは、みな息を止めて頰をふくらませて21習わしの理由子供が息を止めるのは、遊びでなく、大人の用心の写しです。屍は生きた人の息で人を探す。送られてゆく死者は人を探さないので、本当は息を止める要はないのですが、山の村では、鈴が聞こえたら息を止めると子供に教えます。列の中のどれが死者でどれが屍かは、子供には見分けがつかないからです。基本 → 息と足の裏この決まりの要 → 一本の線香おりました。

さて、汪の家の土がどこなのか、一行の誰も知りませんでした。汪の家は四十年あまり前に絶え、屋敷の跡がどこかも分からないのでございます。

潜りの葬送師は、村の入口の辻で足を止めました。碗(わん)の符水を持ったままこの世界では符水は、符を焼いた灰を井戸の水に溶いた水。生まれた土地の土に注ぐと術が解け、死者は倒れて眠る。碗を土に置くと符水が土へ通い、よその土では術が半端に解けるので、碗は土に置かない。基本 → 碗の符水、碗を置く台を探しています22碗の底が土に触れれば、そこから水が土へ抜けはじめます。辻に台が無ければ、戸口の腰掛けや荷車の板を借りる。借りた板は、発つときに袖で一度拭いて返すのが礼です。基本 → 碗の符水同じ場面 → 碗の跡。土に触れさせてはならないからでございます。見つからないので、吠えた犬の家の、戸口の腰掛けの板に置きました。

「山の土は、どこも同じようなものだ23徽州の山の村では、家ごとに茶畑の段を持ち、墓もその段に作ります。同じ村でも段が違えば家の土が違う。村の者は、段の石垣の積み方で、どの家の段かを見分けます。。ここも楓渓のうちに違いない」

「違う土なら、倒れもせずに沈むだけだぞ24沈んだ死者を、山の村では「立ち者」と呼びます。見つけた村は墨で囲って番を置き、その代を、次に同じ道を通る送りの一行に求める。潜りの組が同じ街道を二度通りたがらないのは、このためです。同じ場面 → 六枚目の札」と道士が申しました。

「沈めば沈んだで、そこが墓さ。代は、辻までの分しかもらっていない25潜りは道のりでなく「どこまで」で請けます。請け書の行き先の欄に「辻」の一字しか無ければ、家の土を探すのは別の代です。正規の組は使いを先に出し、着く夜には家の者が土の上で待っています。同じ場面 → 草鞋の数」

そのとき、腰掛けのある家の戸が開きました。犬を叱りに出てきたのは、白髪の老婆でございました。老婆は、立ったまま拍を乱している死者を見て、それから葬送師に尋ねました。

「どちらの方を、送っておいでです」

「江南の、質屋の汪という年寄りだ」

老婆はしばらく黙っておりました。やがて家の中へ入り、小さな紙を一枚持って出てまいりました。黄ばんで、角のすり切れた質札26江南の質札は、桑の皮を漉いた厚い紙に書きます。帳面と札にまたがって割り印を押し、半分ずつの印を合わせて本物を確かめる。汪記の印の残り半分は、帳面の消した行の隣にありました。でございます。端には「汪記」の印があり、細い、几帳面な字で、藍の上着一枚と書いてございました。

老婆は、あの若い人夫の女房でございました。三十年あまり前の秋、夫は死装束の上に、質に入れたはずの藍の上着を重ねて、この村へ帰ってきたのでございます。この質札は上着の懐から出てまいりました。

「汪の家なら、あの楓の下でございます。今は茶畑になっております。うちの人の祖母が、汪の家の子が十二で山を下りたのを覚えておりまして」

老婆は提灯(ちょうちん)を持って先に立ち、一行を茶畑の段の上へ連れてゆきました。古い墓が二つ、枯れた楓の根に抱かれるように並んでおります。葬送師はそこで碗を傾け、符水を細く土へ注ぎました。汪の体は膝を折り、土の上に横になりました。

そのとたん、止まっていた二十二日ぶんの匂い27二十二日は、送る旅としては長い方です。止まっていた日が長いほど、解けた一瞬の匂いは重い。夜気の冷えた山では、匂いは地を這って茶畑の段を下り、提灯の者たちの足もとから上がってきます。この決まりの要 → 匂いの関記録 → 趕屍の記録を読むが、一度に夜気の中へ立ちのぼりました。提灯を持ってついてきた村の者たちは、顔をそむけて後ずさりました。老婆だけが、その場を動きませんでした。

棺がございませんでした。甥が持たせた銭は、辻までの代だけでございます。潜りの葬送師が困って頭を掻いていると、老婆は家の裏の小屋を指さしました。そこには、老婆が自分のために誂(あつら)えておいた寿材(じゅざい)28寿材は、閏月のある年に誂えるのが習いです。誂えた家は毎年一度漆を塗り重ねるので、年を経た寿材ほど黒く、持ち上げると重い。筵をかぶせて小屋に置くのは、湿りと日を避けるためです。、つまり生きているうちに用意しておく棺が、筵(むしろ)をかぶって置いてございました。筵を剝ぐと、蓋の漆が、提灯の灯を黒く返しました。

葬送師は、つい癖で申しました。「婆さん、それで代は」

「もう、いただいております」

老婆は汪の足の結びを、指でていねいに解きました29家の者のいない死者の結びは、迎えた者の手で解きます。結びを残したまま葬るのは、まだ旅の途中だという印になるので、どの家でも忘れずに解きます。この決まりの要 → 揃わない列同じ場面 → 六枚目の札。それから、黄ばんだ質札を死装束の袖に入れてやりました。

町の甥は、今でも店の帳場で叔父の帳面をめくっております。四十冊のうちに一行だけ、どう算盤をはじいても勘定の合わない行がある、とこぼしているそうでございます。

この話は、研究所の設定をもとにした創作で、史実ではありません(短編集について)。