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研究所の創作 短編集

匂いの関

民国の初め / 山から下る川の曲がり目の渡しの関

つながる話 揃いすぎる列(墓から出した本物を列に混ぜた、偽の一行)・鶴の胸(関の手前で、死者の列を見分ける)この世界の基本 水と匂い・碗の符水・死者と屍・鈴と拍・息と足の裏・封

本文の ◦ の印には、この世界の基本の短い説明が付いています。小さな番号は欄外解説で、その場面の決まりの細部や、ほかの話とのつながりを説明します。画面が狭いときは、印や番号を押すと開きます。この世界の基本

民国と年号が改まって三年目の秋のことでございます。山から下る川がひとつ大きく曲がるところに、渡しの関がございました1民国の渡しの関では、死者の数と行き先を書いた通し書きを改めます。通し書きは県の印を押した一枚紙で、一行の先頭が懐に入れて歩きます。記録 → 旅の死者を故郷へ帰す。岸には石を積んだ船着き場があり、その上に板葺きの番所と、梯子で上がる見張りの櫓(やぐら)が立っております。夜になると、番所の軒に吊った提灯がひとつ、川霧の中でぼんやりと赤く滲むのでございました。

番卒の阿満(あまん)は、その年に十七になったばかりでございました。着ている灰色の軍服は前の番卒のお下がりで、袖を二度折っても、まだ手の甲にかかります。肩には古い洋銃を掛けておりましたが、弾は一発も渡されておりません2山の関の番卒の洋銃には、たいてい弾がありません。弾は銃より高くつき、しかも屍には効かない。関の帳面で、弾の代はいちばん先に削られる欄です。。持たされた棍(こん)のほうが、よほど役に立ったのでございます。

番所の裏の小屋には、鍾翁(しょうおう)という老人が住んでおりました。もとは死者この世界では死んだ人には、心にあたる魂(こん)と、体に残る魄(はく)がある。魂が残るうちは「死者」で、鈴で呼べば応えて歩く。魂が抜けて魄だけになると「屍」で、人を襲う。基本 → 死者と屍を故郷へ送る葬送師で、若いころは道士と組んで、幾つもの峠と川を越えたと申します。組んでいた道士が亡くなってからは3葬送師は道士と組んではじめて送る旅に出られます。線に札を留め、封の札(封じるための札)を書く手が無ければ、一人では夜を越せない。相方を亡くした年寄りは、新しい道士と組むより、旅をやめる者の方が多い。基本 → 送る二人同じ場面 → 鈴の箱送る旅をやめ、この関に雇われておりました。新しい政府が阿片を厳しく禁じてからというもの、死者の一行に紛れて荷を運ぶ者があると噂されるようになり、関は死者を見分ける目4死者の一行は人が避けて通るので、荷を改められにくい。民国になって阿片を禁じると、死者の列に荷を紛らす者が出て、関は旅をやめた葬送師を見分け役に雇いました。雇い賃は月に一貫五百文ほどです。同じ場面 → 揃いすぎる列を欲しがったのでございます。鍾翁の仕事は、夜に渡しを求めて来る一行を、ひと目見ることでございました。

鍾翁の持ち物は、布に包んだ三つだけでございます。縁の擦れた真鍮の鈴この世界では葬送師が鈴を鳴らすと、魂の残る死者は呼びかけに応えて自分で跳ぶ。鈴と足音が刻むリズムが「拍」。足音で鈴に応えるのが「返り」で、返りが夜ごとに遅れてゆけば、魄が強まった印。基本 → 鈴と拍と、黒ずんだ木の墨斗(すみつぼ)と、蓋つきの碗5送る旅の碗に蓋はありません。掌に載せて歩き、水面で拍を見るからです。蓋をするのは拍を映す用の無くなった碗で、蓋つきの碗は、旅をやめた葬送師の印になります。同じ場面 → 鈴の箱(わん)でございます。碗には毎月、山の廟で符水(ふすい)を汲み替えておりました6旅の碗は夜ごとに揺れて灰が混ざりますが、据え置きの碗は灰が沈んで効きが薄れます。だから月に一度、廟の井戸で汲み替える。符を焼くのは廟の道士で、鍾翁は相方を亡くしてから、符だけは廟に頼んでいました。記録 → 趕屍の記録を読むこの世界では符水は、符を焼いた灰を井戸の水に溶いた水。生まれた土地の土に注ぐと術が解け、死者は倒れて眠る。碗を土に置くと符水が土へ通い、よその土では術が半端に解けるので、碗は土に置かない。基本 → 碗の符水。阿満がその碗を小屋の土間に置こうとしたとき、老人は珍しく強い声で止めたことがございます。

「土に触れさせるな。符水は土に通じる」

それで阿満は、この碗だけは必ず棚に載せることを覚えたのでございました。

 *

その夜は、川霧が重うございました。子の刻を回ったころ、上流の道から、鈴の音が聞こえてまいりました。ちりん、ちりん、と、間をあけて二つずつ鳴ります。関の犬が低く唸りましたので、阿満は犬を番所の奥へ入れ7習わしの理由犬は死者の列に吠えかかって拍を乱すので、鈴が聞こえたら、まず犬を奥へ入れて戸を閉める。番所でも家々と同じで、阿満はこれを、見分けの手より先に鍾翁から教わっていました。この決まりの要 → 揃わない列、戸を閉めました。

やがて提灯の輪の中へ、一行が入ってまいりました。先頭に黒い衣の男がひとり、鈴を振っております。その後ろに白い死装束の者が五人、両足を揃えて、跳ねては止まり、跳ねては止まりしながら続きます。最後に黄色い道服の、痩せた若い道士がひとり。先頭の男は、さる会館の名を書いた送り旗を竹竿に掲げておりました8会館の送り旗は、死者の銘旌(背に差す、名と郷を書いた旗)と違って、会館の名だけを書きます。一行の先頭が竹竿に掲げて歩き、関や宿ではまずこの旗で身元を問われる。竿の太さに決まりは無く、刃を仕込むにはちょうどよい太さでした。同じ場面 → 九つの碗記録 → 旅の死者を故郷へ帰す。

霧が動いて、一行より先に、匂いが届きました。

鼻の奥にねばりつく、豚の脂の腐ったような匂い9腐った肉は、夏なら二日、秋でも四日で匂いが変わります。偽の一行は宿場ごとに肉屋で買い足すので、同じ一行の匂いが夜ごとに違う。一行より先に届くのは、身につけた肉の脂の匂いが霧の上へ漂うからです。同じ場面 → 揃いすぎる列でございます。阿満は思わず袖で鼻を覆いました。番所の中で、犬がもう一度唸りました。

「下流の町の会館から頼まれた五人でございます。今夜のうちに渡していただきたい」

先頭の男はそう言うと、懐から関の通し書きを出しました。道士は船べりに巡らせるという青い札の束を見せます。書き付けに不審はございません。男は通し書きを阿満に渡すあいだ、左手に持っていた碗を、何の気なしに足もとの土の上へ置きました。

川霧の関で、阿満が袖で鼻を覆い、黒衣の男が通し書きを差し出す。男の碗は土に置かれ、背後には白い息を吐く白装束の四人と、息の見えない青い袍の一体が並ぶ。
通し書きを渡す男が、符水の碗を足もとの土に置く(想像図)

鍾翁が小屋から出てきたのは、そのときでございました。老人は杖もつかず、一行の横へゆっくりと回りました。提灯の明かりを遮らぬように、死者の列を一人ずつ見てゆきます。それから、土の上の碗に目を落としました。

老人は阿満の傍らに戻ると、通し書きをめくるふりをしながら、低い声で申しました。

「臭すぎる」

阿満はわけが分かりませず、老人の顔を見ました。

「術のかかっている死者は、腐りが止まるこの世界では死者は自分の足では水を越えられない。川は舟に青い札を留めて渡り、海は棺に納めて船で運ぶ。術のあいだは体の腐りが止まり、術が解けると、止まっていた日数ぶんの匂いが一度に出る。基本 → 水と匂い。送られる死者は、思うほど臭わぬ。本物の一行の匂いはな、符水と墨と香と、濡れた草鞋(わらじ)だ。あれは肉屋の裏の匂いだ。臭くなければ怪しまれるから、臭いをつけている」

老人は目だけで、土の上の碗を指しました。

「葬送師が、あれを土に置くことはない」

それから、列の足もとを示しました。五人の草鞋は、四足までが踵(かかと)から擦り減っております。跳ねる死者の草鞋は、爪先の下が減る10跳ねる死者の草鞋は、踏み切りのかかる爪先の下から減ります。踵から減るのは、歩いた草鞋です。擦れた藁は白く毛羽立つので、夜の提灯の明かりでも、底を見れば分かります。同じ場面 → 草鞋の数のでございます。

最後に老人は、霧を指しました。冷えた夜の川霧の中で、四人の口もとだけが、ほんのかすかに白く曇っては消えておりました11死者は息をしないので、冷えた夜でも口もとが曇りません。提灯を寄せれば生きた者は息を殺しますが、殺した息は長く続かない。寄せた提灯を下ろさずに待つのが、見分け役の手です。この決まりの要 → 一本の線香同じ場面 → 鶴の胸。提灯を近づければ、その曇りも止まります。四人は、息を殺したのでございます。

「四人は生きている。阿片を詰めた綿入れの上に、腐った肉を巻いておる12人が死者のふりをして物を運ぶ一行は、臭いが無いと怪しまれるので、腐った肉を身につけます。本物より臭い一行は、かえって偽物を疑え。綿入れを着込むのは、肉の汁を肌に通さないためです。同じ場面 → 揃いすぎる列記録 → 墓を開けると屍は起きるのか」

「四人、ですか」と阿満は尋ねました。死者は五人おります。

老人は答えず、列のいちばん後ろ、道士のすぐ前の一人を見ておりました。その一人だけは、白い息を吐きません。腐った脂の匂いもいたしません。代わりに、掘り返したばかりの深い土の、冷たい匂い13墓の底の土は、上の土より冷たく、匂いも違います。上の土は草の根の匂い、底の土は石と水の匂い。掘り返して幾日も経たないうちは、衣の裾に付いた底の土が、まだ湿って黒い。同じ場面 → 揃いすぎる列がいたしました。着ているのは白い死装束ではなく、色の褪せた青い袍(ほう)で、裾は土に汚れております。

「あれは本物だ。墓から出したものだ」

阿満の背中を、冷たいものが下りました。

「それでは、なぜ揃って跳ねておるのです」

「見ておれ」

先頭の男が鈴を鳴らしました。四人がそれに合わせて、いっせいに跳ねます。人の脚でございますから、跳ぶ高さがわずかずつ違います。跳ぶたびに、四人の口もとが白く曇ります。最後の一人も跳ねました。けれどもその口もとだけは、跳ねても、下りても、少しも曇りません。額には、道士の札が一枚、結ばずに貼ってありました。

「札で上から押さえているだけだ」

老人は通し書きを阿満の手に返し、先頭の男へ向き直りました。

「渡すまえに、死者の顔を改めたい」

男の顔から、愛想が消えました。

「死者に触れれば術が破れる。お前さまも葬送師なら、知っておろう」

「知っておる。だから触れぬ」

鍾翁は懐から自分の鈴を出し、一つ振りました。

ちりん、と鳴った音は、男の鈴よりも低く、そして半拍だけ早うございました14相手の鈴の半拍前に低い音を置く打ち方を、先打ちと呼びます。送られる死者は碗の拍につながっているので迷いませんが、人が死者を真似ていれば、耳で拍を拾うので、どちらの音で跳ぶか迷います。同じ場面 → 揃いすぎる列。老人はつづけてもう一つ、また半拍早く振りました。四人の死者が、どちらの音に合わせて跳ねればよいか迷ったのでございます。一人が跳び、一人が遅れ、三人目は膝を曲げかけて、慌ててまっすぐに戻しました。死者の膝は、曲がらぬものでございます15人が死者を真似るとき、いちばん難しいのは膝です。跳ぶたびに膝が曲がりかけ、慌てて伸ばす。夜通し跳んだ偽の一行は、次の宿で階段を下りられず、亭主に顔を覚えられます。。

最後の一人だけは、どちらの鈴にも応えず、札に押されたまま、じっと立っておりました。

霧の中が、しんと静まりました。

 *

先に動いたのは、先頭の男でございました。送り旗の竹竿を振り下ろすと、竿の先から布がはらりと落ち、細い刃が現れました。

「阿満、竿の内へ入れ」

老人の声と、刃が提灯の紐を断つのとが、同時でございました。提灯が落ち、灯が土の上で一度大きく揺れて、それから小さくなりました。

死者の列が崩れました。四人の白い袖から、腐った肉の包みが落ちます。匂いがどっと広がりました。一人が短刀を抜いて、阿満へ走ってまいりました。

阿満は棍を横に構えました。短刀が棍の中ほどに当たり、腕に重く響きます。相手の体は、綿入れと阿片の包みで着ぶくれておりました。阿満は棍の端で、その脛を払いました。男は膝をつきましたが、すぐに起き上がります。着ぶくれた衣は、棍の打ちも吸うのでございます。

鍾翁は墨斗を取り出しておりました。糸の端を船着き場の杭に掛け、墨斗を手にしたまま、低く後ろへ下がります。追って来た二人目の足もとへ、老人は糸を強く張りました。黒い糸が膝の高さで鳴り、男はそれに足を取られて、石の上に転がりました。墨の筋が、白い死装束の胸に一本、真っ直ぐに残りました。

生きた人に、墨線は効きません。けれども、糸は糸でございます16墨の線は生きた人には効きませんが、麻の糸は大人一人の足を払っても切れない。年寄りの葬送師が墨斗を腰から離さないわけの一つです。同じ場面 → 二つに分かれた死者。

番所の奥で、犬が激しく吠えはじめました。

先頭の男の竿が、阿満の頭の上をかすめました。阿満は身を低くし、竿の内へ飛び込みます。老人に言われたとおりでございます。長い刃は、懐へ入った者を斬れません。阿満は男の腕に組みつき、二人でもつれて土の上を転がりました。

そのとき、転がった二人の肩が、列の最後に立っていた一人の脚に、どしんと当たったのでございます。

青い袍が、わずかに傾きました。

額の札の端が、ふわりとめくれました。

貼っただけの札は、そのまま額を離れ、霧の中をひらひらと舞って、川のほうへ落ちてゆきました。

 *

最初に変わったのは、匂いでございました17札が外れると、札の下で抑えられていた魄がむき出しになり、墓の土の匂いが立ちのぼります。身につけた肉の匂いは上に漂い、墓の匂いは足もとから来る。匂いの層で、どれが本物かが分かります。同じ場面 → 一度きりの雷。

腐った脂の匂いの下から、深い土の、古い冷えた匂いが、ゆっくりと立ちのぼってまいりました。阿満は、男の腕をつかんだまま顔を上げました。

青い袍の者が、首を傾けておりました。目は閉じたままでございます。それでも、何かを探すように、顔が少しずつ回ってゆきます。

「息を止めこの世界では屍は、生きた人の陽気(体の温み・気配)で人を見つける。陽気がいちばん多く出るのは息、次が足の裏。息を止めて足の裏を屍に向けなければ、屍にはそこにいる人が見えない。基本 → 息と足の裏ろ」

鍾翁の声は、ひどく静かでございました18年寄りの葬送師は、息を止めろと叫ばず、低く言います。叫べば、叫んだ者の息がいちばん大きく漏れる。叫ばずに言えるようになるまでに、見習いは幾度も屍の前で息を切らします。同じ場面 → 吊り橋の拍記録 → 『聊齋志異』の「尸變」を読む。

阿満は息を止めました。組み合っていた男も、老人の言葉の意味だけは分かったとみえて、慌てて口を結びます。けれども、短刀の男と、墨の糸に転がされた男は、まだ荒い息を吐いておりました。着ぶくれて駆け回ったあとの、熱い、白い息でございます。

青い袍が、跳ねました。

足は結ばれております。両足を揃えて、一度。硬い体が、土を打つ重い音がいたしました。二度。もう転がった男の目の前でございました。

屍(しかばね)の両腕が、男の肩を抱きました。男の叫びは、途中で詰まりました。指が、綿入れの上から肩の肉に食い込んでゆきます。阿片の包みが裂け、黒い粉が霧に舞いました。

「放せ、放せ」と男はもがきましたが、屍の指は、硬直したまま閉じております。

鍾翁は鈴を振りました。

今度の音は、先ほどとは違っておりました。細く、長く、途切れず、一つの高さで鳴りつづけます19鈴を途切れさせずに一つの高さで鳴らし続ける打ち方を、長鳴りと呼びます。拍と拍の間が無くなるので、屍は跳ぶ拍を見つけられずに止まる。手首が続く間だけの手で、年寄りの腕では長くもちません。同じ場面 → 揃いすぎる列・吊り橋の拍。拍を奪われた屍は、男を抱いたまま、じっと動かなくなりました。

「阿満。こちらへ来い。息はまだ止めておけ」

阿満は先頭の男の腕を放し、這うようにして老人のそばへ参りました。先頭の男はそのまま逃げようといたしましたが、痩せた道士に足を引っかけて、共に転びました。

鈴を振りつづけたまま、老人は言いました。

「あれは明の袍だ。古い墓のものだ」

鈴の音が、ほんのわずかに揺れました。老人の腕も、もう若くはございません。

屍の足もとで、ぷつり、と音がいたしました。

白い麻の紐が、切れたのでございます。

屍は男を放しました20屍の指は閉じるだけで、自分から開くことはありません。掴まれた者が離れるのは、体を握る魄(はく)の力がゆるんだときか、人の手で指を一本ずつはがしたときだけです。長鳴りのあいだ、屍は止まっていただけでなく、魄の握りもゆるんでいました。そこへ紐が切れて体が走るほうへ向いたので、ゆるんでいた指から男が外れたのです。基本 → 育つ。放して、今度は膝を曲げたのでございます。曲がらぬはずの膝が、ぎしりと曲がりました。そうして、跳ねるのではなく、走ったのでございます。

阿満はとうとう息を吐いてしまいました。

屍の顔が、こちらを向きました。

「櫓だ。梯子を上がれ」

阿満は走りました。櫓の梯子に飛びつき、横木を三段、四段と上がります。すぐ下で、屍の手が梯子の脚をつかみました。梯子がきしみます。けれども屍は、それ以上は上がってまいりません。走れるほどほどけた膝も、梯子を登るほどには、まだ曲がらないのでございます。

阿満は横木にしがみつき、また息を止めました。足の裏が、ちょうど屍の頭の真上にございました。

「足を上げろ」

下から、老人の声がいたしました。阿満は膝を抱えるように、両足を横木の上に引き上げました。屍の顔が、しばらく上を探しておりました。それから、ゆっくりと離れてゆきました。

 *

鍾翁は、そのあいだに墨を打っておりました。

阿満が櫓の梯子で両足を横木に引き上げ、その下の青い袍の屍が梯子の脚をつかむ。鍾翁が石の上に墨筋を打ち、川側を開けた三方の囲いを作る。
梯子に避けた阿満の下で、鍾翁が三方の墨筋を打つ(想像図)

船着き場の杭から番所の柱へ、番所の柱から櫓の脚へ、老人は墨斗を抱えて石の上を渡り、糸を張っては、指で弾いてゆきます。弾くたびに、濡れた石の上に黒い筋が一本ずつ立ちました。櫓の下を囲む、三方の線21濡れた石の上に弾いた墨は、乾いた土よりも縁がにじみます。石の上に線を打つときは糸を一度で弾き、二度は弾かない。二度目の墨は一度目の上で滑り、線が二本に割れるからです。同じ場面 → 一度きりの雷でございます。残る一方だけが、川のほうへ開いておりました。

「阿満。下りてこい。そして、息を吐け」

阿満は耳を疑いました。

「わしが呼べば、あれはわしのほうへ来る。お前のほうが若い。お前の息のほうが、よく匂う22陽気は若い者ほど盛んです。十七の阿満の息は、七十の老人の息より、屍にとってずっとよく匂います。」

老人は、開いた一方の外に立っておりました。阿満は梯子を下りました。三方の線の内側の、櫓の脚のところに下りたのでございます。屍は、船着き場の端で、まだ荒い息を吐いている短刀の男のほうへ向かいかけておりました。

阿満は、大きく息を吐きました。

白い息が、提灯の残り火の中にふわりと浮かびました。

屍が振り向きました。そして、走ってまいりました。まっすぐに、開いた一方から、線の内へ。

阿満は梯子に取りついて、また駆け上がりました。屍の手が、阿満の踵をかすめました。

鍾翁は、開いていた一方に最後の糸を張り、弾きました。

黒い筋が、石の上に立ちました。

屍は振り返り、出ようといたしました。そうして、線の手前で止まりました。止まって、線に沿って、右へ走り、左へ走り、もう一度右へ走りました。どこへ行っても、黒い筋がございます。

老人は、墨を打つ前に小屋から出して番所の窓の棚に載せておいた碗を取り、左の掌に載せて、蓋を取りました。符水の匂いが、腐った脂の匂いを一筋だけ押しのけました。

「注いでも眠らぬ。けれど、倒れはする23線の外から符水を注ぐときは、腕を伸ばしきってから碗を傾け、水の筋が線の墨に掛からないようにします。符水が墨に落ちれば、そこだけ墨が浮いて線が弱る。石の上なら、継ぎ目の土を狙います。同じ場面 → 反る札記録 → 趕屍の記録を読む」

老人は線の外から腕を伸ばし、屍の足もとの石の継ぎ目の土へ、碗の水を細く一筋注ぎました。

水が土に吸われました。屍は、膝から崩れました。崩れて、石の上に横たわりました。

阿満は梯子の上から、それを見ておりました。倒れた屍の、袖の先で、指が一本、ゆっくりと動いておりました。石の目を探るように、曲がっては伸び、曲がっては伸びいたします。

「弱っただけだ」と老人は申しました。

 *

短刀の男が、落ちていた提灯の火を、腐った肉の包みに移そうとしておりました。油を吸った布が、ちろちろと燃えはじめます。

「焼いてしまえ。焼けば動くまい」

鍾翁は、燃えかけた包みを足で川へ蹴り落としました。

男は老人の顔を見て、それきり黙りました。

線の内で、屍の指はまだ動いております。墨の線は、葬送師ひとりで打ったものでございます。端には、まだ札が一枚も留まっておりません。

老人は、先頭の男と一緒に転がっていた、痩せた道士を見ました。道士は泥だらけの道服のまま、腰を抜かしておりました。

「お前は、札の書き方を、どこで習った」

道士は答えませんでした。

「師に習ったとおりに書け。押さえる札でなく、封この世界ではすぐには送れない屍を、墨の線と札で蔵や棺に閉じ込めておくのが「封」。屍は雷でも火でも滅ぼせず、弱らせることしかできない。だから弱らせて封じ、銭がそろってから送る。基本 → 封じる札だ」

老人は自分の布の包みから、黄色い紙と朱の壺24組んでいた道士が死ぬと、札の紙と朱は相方の葬送師が預かります。朱は膠で練ってあるので壺の中で固まりますが、水を一滴落として練れば戻る。十年置いた朱でも、色は変わりません。同じ場面 → 鈴の箱を出して、道士の前に置きました。組んでいた道士の遺したものでございました。

道士の手は震えておりました。筆の先が紙の上で揺れ、朱が一滴、落ちました。

鍾翁は鈴を取り、ゆっくりと振りはじめました。ちりん、と一つ。間をおいて、また一つ。先ほどの、拍を奪う音ではございません。歩く人の足取りのような、ゆるやかな拍でございます。

道士の筆が、その拍に合わせて動きはじめました25組の長い二人は、道士が札を書くとき、葬送師がゆるやかに鈴を振ります。一画を一拍で引けば、札の字は死者の拍に揃う。手の震える若い道士に、年寄りの葬送師がつける稽古でもあります。。一画、また一画。鈴が鳴るたびに、筆が紙の上を進みます。やがて札が一枚、また一枚と書き上がりました。

夜明けの関で、泥に汚れた黄色い道服の男が札を書き、鍾翁が鈴を持つ。阿満が書き上がった札を受け取り、墨筋の内側には青い袍の屍が横たわる。
鍾翁のゆるやかな鈴に合わせて、道士が封じる札を書く(想像図)

阿満がそれを受け取り、老人の言うとおり、四方の線の端に一枚ずつ留めてゆきました。最後の一枚は、倒れた屍の額に押し当てて留めました。

袖の先の指が、止まりました。

そのとき阿満は、ふと、線の内の匂いが変わったのに気づきました。深い土の匂いの奥から、もっと古い、湿った、閉じられた部屋のような匂い26封じた屍は時が止まっていないので、封の内には年月ぶんの匂いがこもります。古い墓の屍なら腐りはとうに済んでいて、閉め切った部屋のような乾いた匂いになる。封を軽々しく開けない理由の一つです。同じ場面 → 反る札・封の家が立ちのぼってまいります。

「封の内には、年月がこもる」と老人は申しました。「あの人の年月だ。封を軽々しく開けぬのは、そのためもある」

東の山の端が、ようやく白みはじめておりました。

 *

四人の男と先頭の男、それに痩せた道士は、朝のうちに県城から来た役人に引き渡されました。裂けた綿入れからは、阿片の包みが二十と少し出てまいりました。先頭の男は、上流の山の斜面にある古い墓を、自分たちが掘ったことを白状いたしました。副葬の玉は、もう下流の町で売ってしまったとのことでございます。墓の主を列に入れたのは、関で死者の手を改められたとき、冷たい本物の手を触らせるためでございました。

墓は、川のこちら側にございました。還すのに、水を越える必要はございません。

三日のち、日の暮れるのを待って、鍾翁と阿満は、封じた屍を納めた借り物の棺27借りた棺を墓に納めれば、もう返せません。義荘の帳面では、返らない借り棺は買い上げに書き替えられ、値は港の相場で銀貨一、二枚。関の帳面のどの欄から出たかは、書かれていません。同じ場面 → 鶴の胸を荷車に載せ28封じた棺はふつう四人で担ぎますが、二人しかいなければ荷車で運びます。荷車の揺れは板から棺へ伝わるので、葬送師はときどき鈴を鳴らし、封の内の返りを聞きながら進みます。同じ場面 → 揃いすぎる列、上流の山へ向かいました。老人が前を歩き、ときどき鈴を鳴らします。阿満は荷車を押しながら、その音を聞いておりました。棺の中からは、何も返ってまいりません。

掘り返された墓は、崩れた土と、割れた石の扉を晒しておりました。二人は棺を穴の底に下ろし、蓋を少しだけずらしました29封じた屍を還すときは、封の札を剝がさず、蓋を指二本ぶんだけずらして墓の土に符水を注ぎます。封を開けずに済むので、年月ぶんの匂いを浴びずに済む。蓋は注いだあとで戻します。。鍾翁は懐から碗を出し、蓋に指を掛けたところで、手を止めました。阿満は黙って、左の掌を差し出しました。老人はその上に碗を載せ30習わしの理由碗は、葬送師が縁に手を添えていれば、他の者の掌に載せてもかまいません。土に触れさせないためだけの決まりです。ただ、組んでいた道士を亡くしてから、鍾翁の碗は誰の掌にも載らなかった。基本 → 送る二人、蓋を取りました。そうして阿満の掌の上で碗を傾け、残った符水を、その墓の土の上に静かに注ぎました。水は、崩れた土の粒のあいだへ、ゆっくりとしみてゆきました。

阿満は、棺の中で何かがほどけたように思いました。音はいたしません。ただ、あの古い閉じた部屋の匂いが、すうっと土の中へ引いていった31眠れば、封の内にこもった匂いは土へ引いていきます。術で送られた死者が着いた夜のように、一度に来る匂いはありません。蓋を戻す前に、葬送師は一度だけ棺の口へ鼻を寄せて、引ききったかを確かめます。同じ場面 → 草鞋の数のでございます。あとには、夜の山の、湿った草と土の匂いだけが残りました。

二人は土を戻し、石の扉を立て直しました。帰り道、阿満は長いあいだ黙っておりましたが、川の見えるところまで下りたとき、ようやく口を開きました。

「爺さま。わたしは、あの肉の匂いを、たぶん一生忘れませぬ」

鍾翁は歩きながら、少し笑いました。

「忘れぬでよい。けれど、覚えておくのは、あっちの匂いだ」

老人は顎で、背後の山を指しました。阿満は振り返りました。夜の風が、山のほうから下りてまいります。その中には、腐った脂の匂いも、封の内の年月の匂いもございません。濡れた土と、草と、いま注いだばかりの符水の、かすかに澄んだ匂いがいたしました。

関の提灯が、川霧の向こうに、赤く小さく見えておりました。

この話は、研究所の設定をもとにした創作で、史実ではありません(短編集について)。