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研究所の創作 短編集

吊り橋の拍

清の末(光緒のころ) / 湘西の峡谷にかかる鉄の鎖の吊り橋

つながる話 一本の線香(息を止めれば見つからない、の要の話)・揃わない列(木札の無い若い葬送師が、安い値で請ける)この世界の基本 水と匂い・息と足の裏・鈴と拍・碗の符水・額の札・銭

本文の ◦ の印には、この世界の基本の短い説明が付いています。小さな番号は欄外解説で、その場面の決まりの細部や、ほかの話とのつながりを説明します。画面が狭いときは、印や番号を押すと開きます。この世界の基本

光緒のころ、湘西の山あいに、深い谷を跨ぐ一本の吊り橋がございました。両岸の岩に据えた橋楼(きょうろう)から、鉄の鎖が向こう岸へ渡してあります。下の九本には板を並べて道とし、左右の二本は腰の高さの手すりとし、さらに橋楼の梁(はり)と梁のあいだには、背丈の倍ほどの高さに鎖が一本、昔は提灯を吊るした名残で張られておりました。人が歩けば橋は揺れ、揺れれば鎖が鳴ります。そのはるか下を、白い水が岩を噛みながら走っておりました。

その秋、橋のたもとの宿場に、旅回りの雑技の一座1旅回りの一座と送る一行は、同じ街道で同じ宿を使います。一座は昼に稼いで夜に寝て、一行は夜に歩いて昼に寝る。宿の亭主は、同じ部屋を一日に二度貸せるこの組み合わせを喜びます。同じ場面 → 半拍の鼓が小屋を掛けました。皿回し、火吹き、犬の芸、それに綱渡りでございます。綱を渡るのは、燕児(えんじ)という十四の娘でした。

燕児は、夜ふけに一人で橋へ出るのを習いにしておりました。昼の橋は荷を担ぐ人で混み、娘が鎖の上など歩けば叱られます。夜ならば誰もおりません。手すりの鎖に素足を載せ、竹の棹(さお)を横に持って、向こう岸へ一歩ずつ進みます。鎖は綱よりも固く、冷たく、ときどき錆(さび)が足の裏にざらりと当たりました。谷の風は下から吹き上げて参ります。燕児はその風と、橋の揺れと、自分の息とを、一つの拍に合わせて歩くのでございました。

赤い紐で髪を結んだ燕児が、霧の峡谷に架かる橋の手すりの鎖を素足で渡り、竹の棹で釣り合いを取る。
夜ふけ、一人で手すりの鎖を渡る燕児(想像図)

座頭はいつも申しておりました。「綱を踏むな。拍を踏め」

その夜も、燕児は橋の半ばを過ぎたあたりで鎖を下り、谷の霧を見下ろしておりました。すると、宿場の側の岸から、鈴この世界では葬送師が鈴を鳴らすと、魂の残る死者は呼びかけに応えて自分で跳ぶ。鈴と足音が刻むリズムが「拍」。足音で鈴に応えるのが「返り」で、返りが夜ごとに遅れてゆけば、魄が強まった印。基本 → 鈴と拍の音が聞こえたのでございます。

ちりん、と一つ。間を置いて、また一つ。

燕児は棹を手すりに掛け、板の上にしゃがみました2橋の上で死者の一行と行き合えば、生きた者は端へ寄ってしゃがみ、顔を伏せるのが作法です。立ったままでは、揺れる橋の上で列の拍に体が乗ってしまう。しゃがめば、揺れは膝で受けられます。同じ場面 → 半拍の鼓・一本の線香。死者の一行には道をあけるものと、この山の子なら誰でも知っております。

霧の中から、まず少年が現れました。年は燕児とさほど変わらないように見えます。右手に鈴、左手に碗(わん)を持ち、碗の縁から水がこぼれぬよう、肘を脇に寄せておりました3肘を脇に付けるのは、歩く揺れを肩でなく腰で受けるためです。長く歩く葬送師の左の袖は、肘の当たる所だけが擦れて薄くなる。少年の年で袖が擦れていれば、師について歩いた夜が長いということです。同じ場面 → 揃わない列。その後ろに、死者が六体4二人組が一度に連れるのは四、五人がふつうで、六人からは潜りの数です。碗の水は人数に一杯を足すので七杯ぶん。満たした碗は重く、掌に載せたまま一晩歩ける、ぎりぎりの重さです。同じ場面 → 草鞋の数・六枚目の札、並んで跳ねて参ります。両足を揃え、膝を曲げず、鈴の音のたびに少しずつ前へ出る。粗い死装束が霧に濡れて、肩に張りついておりました。いちばん後ろには、道服の男が一人、提灯を下げて従っております。道服の裾はほつれ5道服の裾のほつれは、腕のせいとは限らず、たいていは実入りのせいです。削られた実入りは、裾を繕う銭より先に、提灯の紙の継ぎに出ます。、提灯の紙には継ぎが当ててありました。

橋の入口で、道服の男は懐から青い札を二枚出し6橋も水の上の道なので、川を越えるのと同じく青い札で囲います。両端の手すりの鎖に二枚ずつ、四枚で水の上に一夜だけの仮の地を敷く。一枚でも駄目になれば地は閉じず、列は水の方へ引かれます。同じ場面 → 封の家この世界では死者は自分の足では水を越えられない。川は舟に青い札を留めて渡り、海は棺に納めて船で運ぶ。術のあいだは体の腐りが止まり、術が解けると、止まっていた日数ぶんの匂いが一度に出る。基本 → 水と匂い、左右の手すりの鎖に一枚ずつ巻きつけました。向こう岸の端の二枚は、昼のうちに渡って巻いてあるのでございます。燕児も話には聞いておりました。死者は水を越えられぬもの。橋を渡るのも、水の上を行くのと変わりません。青い札で囲えば、ひと晩だけ水の上を行けるのだそうでございます。

一行は橋に入りました。板が鳴り、鎖が鳴り、橋はゆっくりと、死者の跳ねる拍で上下いたしました。燕児はその揺れを、しゃがんだ膝で受けました。揃っております。六つの体が一つのように跳ね、橋も一つの拍で揺れる。綱の上で覚えたのと同じ、よい拍でございました。

ところが、一行が橋の三分の一ほどまで来たとき、燕児は妙な匂いに気がつきました。

それまで一行から流れてきたのは、符水この世界では符水は、符を焼いた灰を井戸の水に溶いた水。生まれた土地の土に注ぐと術が解け、死者は倒れて眠る。碗を土に置くと符水が土へ通い、よその土では術が半端に解けるので、碗は土に置かない。基本 → 碗の符水(ふすい)と、墨と、線香と、濡れた藁の匂いでございました。そこへ、甘く重い、古い肉の匂い7戻り(術で止まっていた腐りが、術が緩んで戻り始めること)の匂いは、風下と襟元から来ます。谷風の吹き上げる橋の上では、下から上へ昇ってくる。橋の上で最初に気づくのは、たいてい列の後ろでなく、上にいる者です。同じ場面 → 草鞋の数が混じったのです。燕児は、宿場の裏で死んだ犬を見つけた夏の朝を思い出しました。

少年も気づいたのでしょう。鈴を振る手を止めずに、振り返りました。燕児は少年の目の先を追いました。入口の鎖に巻いた青い札が、霧を吸って黒ずんでおります。安い墨が紙の下へ流れ8青い札の朱は、乾けば水に流れませんが、墨で書いた札は霧を吸って流れる。朱を惜しんで墨で書く道士がいるのは、札の値の半分が朱の値だからです。同じ場面 → 草鞋の数、滴になって落ちておりました。

橋が、一拍、遅れて揺れました。

いちばん後ろの死者が、ほかの五体より半分だけ遅れて跳ねたのでございます。その額の札この世界では額の札は、薄れてゆく魂を体に結びとめ、死者が鈴に応えられるようにする紙の札。道士が黄色い竹紙に朱で書き、宛て先にその死者の名(知らなければ郷)を書く。効きは一年。基本 → 額の札が、揺れにあおられて、ぺらりとめくれました9麻紐は霧を吸うと締まり、乾きかけると結び目がゆるみます。だから霧の夜は、宵と夜半の二度、額の後ろの結びを締め直すのが習い。締め直すのは後ろを歩く道士の仕事で、提灯を下げてついて来るだけの道士には、その手が無かったのです。同じ場面 → 揃わない列。霧を吸った麻紐の結びが、もう一度の揺れでほどけ、札は額を離れ、霧の中をひらひらと、谷へ落ちてゆきました。

死者は、跳ねるのをやめました10二年待って糸のように細くなった魂は、札が落ちれば体を握れず、魄が表に出て生きた人の気配を探します。それでも魂が尽きてはいないので、この人は屍でなく死者です。押さえの札一枚でまた鈴に応えるのは、そのためで、魂の無い屍なら押さえの札では鈴に応えず、拍で縛られるだけです。基本 → 死者と屍同じ場面 → 揃いすぎる列。

止まったのではございません。立ったまま、首だけがゆっくりと後ろへ回ったのです。そこには提灯を下げた道服の男がおりました。

男は声を上げ、提灯を放り出して、宿場の岸へ駆け戻りました。肩の油紙の袋が手すりに引っ掛かり、紐が切れて、板の隙間から下へ落ちます。袋は谷へは落ちず、板の下を渡る鎖の一本に、紐の端で吊られて揺れておりました。

死者は三度跳ねて男を追い、橋の入口の手前で止まりました。そこから先は岸でございます。けれども、岸へは下りられませんでした。札があるうちは水の上に居てよかった体が、札の切れた今は、ただ水の上に居るのでございます11札の切れた体は、水の上にいる間、どちらの岸にも出られません。水を越えられない決まりの裏返しで、橋や舟の上に閉じ込められる。橋の上で札が切れたら、岸へ逃げた者はひとまず助かります。同じ場面 → 封の家。死者は板の端で、見えない壁に額をつけるように、ゆらゆらと揺れておりました。

少年は鈴を振り続けておりました。残る五体は、その鈴に縋るように、小さく揃って跳ねております。鈴が止まれば、五体とも同じことになる。少年はそれを知っていて、振り返ることしかできないのでございました。

「そこの人」と少年が申しました。燕児の方を見ずに、声だけを低く投げたのです。「息を止めて。あれは息で人を探します12息を止めて隠れながら、足を屍の方へ向けていて見つかる客の話は、『聊齋志異』の「尸變」にあります。この世界の順もそれと同じで、まず息、次に足。少年の二つの言葉は、その順に出ました。記録 → 『聊齋志異』の「尸變」を読むこの世界では屍は、生きた人の陽気(体の温み・気配)で人を見つける。陽気がいちばん多く出るのは息、次が足の裏。息を止めて足の裏を屍に向けなければ、屍にはそこにいる人が見えない。基本 → 息と足の裏」

燕児は息を止めました。

入口の死者は、しばらく揺れておりましたが、やがてこちらへ向き直りました。跳ねます。板が鳴りました。また跳ねます。五体の列の脇を、肩をぶつけながら過ぎて参ります。ぶつかられた死者がよろめき、橋が斜めに揺れました。少年は息を止めたまま、鈴だけは拍を崩さずに振っております。死者はその少年の脇も過ぎました。袖が触れるほどの近さでございました。

そして、燕児の前で止まったのでございます。

燕児は息をしておりません。けれども死者は、しゃがんだ燕児の、板についた足もとへ、ゆっくりと顔を下ろしてまいりました。古い肉の匂いが、燕児の膝のあたりに溜まりました。

「足を上げて」と少年が言いました。「足の裏からも漏れる」

燕児は跳びました。

手すりの鎖を一度蹴り、上の鎖に両手でぶら下がり、身を返して、その上に立ったのでございます。一座の者が見ていれば、手を打ったことでございましょう13鎖の上で身を返す芸は、どこの一座でも見世物の締めに取っておく大技です。旅回りの木戸銭は一人十文ほど。その夜いちばんの芸を見たのは、木戸銭を払わない客一人でした。同じ場面 → 半拍の鼓。死者の腕が、さっきまで燕児の足のあった宙をつかみました。指が閉じる音が、鎖の音よりはっきりと聞こえました。

死者は、上を向きました。けれども、鎖には登れません14膝の曲がらぬ体は、塀も梯子も木も鎖も登れません。真上は陽気が漏れても手の届かない所で、死者は見上げたまま、足の真下についてくるだけ。水を渡れないのと同じ、硬さの決まりです。同じ場面 → 匂いの関。膝の曲がらぬ体は、塀も梯子も越えられぬのでございます。死者は燕児の足の真下に立ち、燕児が一歩動けば一歩跳ね、燕児が止まれば止まりました。

少年は燕児を見上げ、それから橋の向こう岸の方を見ました。

「向こうの端まで連れて行けますか」

燕児は、自分の足の下の死者を見ました。

「行けます」

燕児は上の鎖を、向こう岸へ向かって歩きだしました。棹はございません。両手を横に張り、谷風の吹き上げる拍に合わせて、一歩、また一歩。下では死者が、一歩、また一歩と跳ねます。燕児が拍を速めれば、死者も速めます。橋が揺れ、上の鎖がたわみ、燕児はそのたわみを膝で殺しました。

向こう岸の橋楼の手前で、燕児は止まりました。死者もそこで止まりました。

そのあいだに、少年は碗を足もとの板に置いておりました15吊り橋の板は、鎖の上に並べて藤の蔓で縛ってあるだけです。碗を置くなら板の継ぎ目を避け、一枚の板の真ん中に。継ぎ目の上では、揺れのたびに碗が板の段差を渡ります。同じ場面 → 反る札。空いた左手で、腰から墨斗(すみつぼ)を外しました。

「糸の端を」

少年は墨斗の糸の端を、手すりの鎖越しに燕児の方へ投げ上げました。燕児は上の鎖から手すりへ下り、片足で鎖を踏んだまま、糸の端を受け取りました。死者との間は、大人の背丈二つほどしかございません。死者の顔が、燕児の足の方へ、また下りてきます。

少年は右手で鈴を振りながら、左手と歯で糸を張り、自分の側の手すりに押しつけました。糸は板の上を斜めに横切り、燕児の手もとまで渡っております。

「上へ」

燕児は糸の端を手すりの鎖に巻きつけ、上の鎖へ跳び戻りました。死者の指が、燕児の踵をかすめました。冷たいというより、濡れた木のような手ざわり16霧の夜には、術で送られる体の肌の表だけが濡れ、湿りは奥へ染みない。冷たいというより濡れた木に似るのは、肌の下に血が通っていないからです。同じ場面 → 鶴の胸でございました。

少年は糸を指でつまみ、引き上げ、放しました。

ぴしり、と音がして17墨斗の糸を弾く音は、乾いた板では「ぴしり」、湿った土では「ぱすん」と鳴ります。糸を持ち上げるのは指一本ぶん。高く上げるほど線は太くなりますが、墨が飛び散って線の縁がぼやけます。、板の上に黒い線が一本、手すりから手すりへ走りました。

死者は線のこちら側、向こう岸の端におります。五体の列と少年は、線の向こうでございます。前は水、後ろは墨。死者は橋の端の、わずか十歩ほどの板の上に囲われたのでございました。

死者は、線の方へ跳ねました。線の手前で、額を打ったように止まりました。もう一度跳ね、また止まりました。燕児は上の鎖の上で、息を吐きました。そのとたん、死者の顔が燕児の方へ上がりました。燕児はまた息を止めました。

「弱らせます」と少年が言いました。「このままでは札が貼れない」

少年は鈴の振り方を変えました。それまでの、ちりん、と、ちりん、の間に、もう一つ小さな音を挟むのです18拍と拍のあいだに小さな音を一つ挟む打ち方を、挟み打ちと呼びます。挟んだ音に跳ねかけると、硬い体は半ば浮いて斜めに落ちる。列には胸の前で、囲いの中の一人には手首を返して、音の向きを分けて振ります。同じ場面 → 揃いすぎる列・匂いの関。五体の列には、元の拍が届くよう、鈴を胸の前で振ります。線の向こうの死者には、挟んだ音が届くよう、手首を返して向こうへ振ります。

死者の跳ね方が乱れました。跳ぼうとしたところで音が来て、膝の曲がらぬ体が半ば浮き、斜めに落ちます。

燕児は、それを見て、自分の足の下の鎖を踏みました。

綱渡りの者は、綱の揺れを殺すことを覚えます。けれども、揺れを起こすことも、同じだけ知っているのでございます。燕児は少年の鈴の、挟んだ音に合わせて、上の鎖を踏みました。鎖は吊りの輪を通じて板の鎖に伝わり、橋の端の十歩ほどが、死者の拍と逆に揺れました。

死者が跳ねます。板が下がります。足が空を踏み、死者は仰向けに倒れました。背が板を打ち、下の九本の鎖が、一度に鳴りました。

起き上がるまでに、しばらくかかりました。膝を曲げぬまま、背で板を押して、棒が立つように起き上がる19膝の曲がらない体は、倒れると背で地を押し、棒が立つように起き上がります。起き上がるたびに遅くなるのは、体を立て直すたびに、魄が、体を動かすもとになる気を使い減らしていくから。弱らせるとは、このことです。同じ場面 → 一度きりの雷記録 → 屍の段階を読むのでございます。起き上がって跳ね、また板が下がり、また倒れました。三度、四度。倒れるたび、起き上がるまでが長くなりました。鈴の挟んだ音に、死者の体が応えるのも、一つずつ遅れてまいります。五度目に倒れたとき、死者は起き上がらず、ただ指だけが、板の目を探るように動いておりました。

そのときでございます。宿場の側の岸で、犬が吠えました。

一座の小屋から、犬が出てまいりました。燕児の犬でした。芸をする、黒い、よく吠える犬でございます。吠え声は谷に響き、鈴の音にかぶさりました。五体の列が揺らぎました。一体が半歩遅れ、別の一体が半歩早く跳ねました。少年の顔色が変わりました。鈴を振る手が速くなり、それでまた列が乱れます。板の上の碗の水面に、細かい輪が立ちました20碗の水面は、列の拍を映します。揃っていれば一拍ごとに輪が一つ立って消え、乱れれば細かい輪が重なる。葬送師は鈴を振りながら、目はいつも水面に置いています。同じ場面 → 揃わない列。

燕児は指を口に入れ、長く、一度だけ吹きました21一座の犬は笛一つで伏せます。伏せの笛は指を口に入れて吹く長い一声で、呼び戻しの短い二声とは分ける。送る一行の通る宿場では、一座の犬がいちばん行儀がいい。飼い主が、たいてい夜ふかしだからです。同じ場面 → 一本の線香。小屋で「伏せ」を教えるときの笛でございます。

犬は、黙りました。

少年はしばらく何も言わずに、鈴で列を整えておりました。やがて五体の跳ねる音が、また一つになりました。

「袋を」と少年が言いました。「札は、あの人の袋の中です」

油紙の袋は、宿場の側の入口近く、板の下の鎖に、まだ吊られて揺れておりました。

燕児は上の鎖を宿場の方へ戻りました。今度は下を、誰もついて参りません。囲われた死者の上を過ぎ、墨の線を越え、少年の頭の上を過ぎ、五体の列の頭の上を過ぎます。死者たちは誰も上を見ませんでした。燕児は入口の近くで手すりへ下り、板へ下り、それから板の縁に両手を掛けて、谷の側へ身を落としました。

板の下は、霧でございました。霧の底から、水の音だけが上がってまいります。燕児は板の下を渡る鎖に膝を掛け、逆さに吊られて、手を伸ばしました。袋の紐は、鎖の錆にかろうじて絡んでおります。指先が油紙に触れました。紐がほどけかけました。燕児は膝を締め、腹に力を入れ、もう一寸だけ手を伸ばして、袋の底をつかみました。

燕児が橋板の下の鎖に両膝を掛けて逆さに下がり、鎖に紐が掛かった油紙の袋へ指を触れている。下には深い霧が広がる。
橋板の下で、鎖に掛かった油紙の袋へ手を伸ばす燕児(想像図)

板の上へ戻ったとき、燕児の膝の裏には、錆の跡が赤く残っておりました。

袋の中には、押さえの札が三枚、封の札が一枚22潜りの道士の袋の中身は、たいてい押さえの札(結ばずに額の札の上へ貼るだけの札)が数枚と、封の札(棺や線の端に留める、封じるための札)が一枚、それに青い札です。封の札が一枚きりなのは、封じる事態まで見込めば代が上がり、請けられなくなるからです。同じ場面 → 草鞋の数、それに油紙で二重に包んだ青い札23札は湿りに弱いので、油紙に包んで持ち歩きます。油紙は桐油を引いた紙で、乾いた油の匂いがする。川と霧の道では二重に包むのが用心で、一重で済ませた札は、渡る前に藍が抜けます。が四枚ございました。油紙の中の札は、乾いておりました。

少年は線の手前まで行き、囲いの中の死者を見ました。死者は仰向けのまま、指を動かしております。少年の鈴に、もう応えません。

「札を額に。けれど、近づけば足で見つかります」

燕児は、しばらく死者を見ておりました。それから、上の鎖を見上げました。

押さえの札の裏には、糊が引いてございます。燕児はその一枚を、糊の面を湿すように口にくわえ、上の鎖へ登りました。死者の真上まで歩き、そこで膝を鎖に掛け、ゆっくりと逆さに下がったのでございます。足は鎖の上、はるか高いところにございます。顔と手だけが、死者の方へ下りてゆきます。燕児は息を止めました。

死者の顔が、すぐそこにございました。目は閉じております。瞼の縁に、古い土の色が残っておりました。匂いは、息を止めていても目に沁みるようでございました。死者の指が、板の上で、燕児を探すように動きます。けれども探しているのは、板の方でございました。燕児はそこにはおりません。

燕児は口から札を取り、湿った糊の面を、死者の額に押し当てました。

指が、止まりました。

少年が線の向こうで鈴を一度鳴らしました。死者の体が、わずかに遅れて、それに応えました。

燕児は鎖に戻り、下りて、ようやく息を吐きました。胸の中が焼けるようでございました。

少年は囲いに入り、押さえの札の縁を指でなぞって、糊の端まで額に沿わせました。封の札は、棺に納めるときのために、袋へ戻しました。それから、死者の足もとを見ました。両足を揃えて結んでいた藁の縄が、ほとんど切れかけております24足の結びを藁の縄で済ませれば安く上がりますが、跳ねるたびに擦れて十晩ともたない。結びが切れれば、硬さのほどけた死者は走りだします。同じ場面 → 二つに分かれた死者。

「縄を替えないと、この人は次に走ります」

少年の荷に、縄の替えはございませんでした。燕児は自分の髪を結んでいた赤い紐をほどき、少年に渡しました。舞台で髪が乱れぬよう結ぶ、一座の赤でございます。少年は礼を言わずに受け取り25習わしの理由送る道中で受けた物に、葬送師はその場で礼を言いません。礼は死者が着いてから、死者の家の者が言うものだからです。、死者の足首を揃えて結びました。古い死装束の裾から、新しい赤がのぞいておりました26結びの紐は白い麻と決まっていますが、急場に替えるなら色は問いません。守るのは結び目の場所で、踝の外側に作ること。赤い紐の死者は、宿の亭主に一度は目を留められます。同じ場面 → 匂いの関。

夜明けの橋板で、少年が横たわる死者の両足首を赤い紐で結び直す。髪を解いた燕児がそばで見守り、碗と古い縄が板に置かれている。
燕児の赤い髪紐で、死者の足首を結び直す少年(想像図)

「二年、義荘(ぎそう)で待っていた人です27義荘の預かり賃は一体一日十文、二年で七貫あまりです。送る代より預かり賃の方が高くつくことも珍しくない。待つあいだの香は義荘が焚くので、魂は細くとも残ります。基本 → 義荘と土地の神同じ場面 → 草鞋の数」と少年は、結び目を締めながら申しました。「家の者が、やっと銭を集めた。正規この世界では死者を故郷へ送るには銭がかかる。払える額で、正規の組か、潜り(正規でない安い組)か、その夜だけ雇う術者かが決まる。官服を着た死者は、自分で送る代を払える者。基本 → 銭の組には足りない額でした。だから私が請けた。道士も、あの値で来てくれる人しかいなかった28潜りは正規の相場の半値あまりで請け、まず道士の代を削ります。削られた道士が次に削るのは、札の朱と紙です。同じ場面 → 揃わない列」

燕児は何も答えませんでした。

青い札は、橋の両端の鎖に巻かねばなりません。燕児は袋を受け取り、上の鎖を走りました。宿場の側の入口で、黒く崩れた古い札の上から、新しい札を二枚巻き、油紙を上から結びつけて、霧を防ぎました。取って返して、向こう岸の端にも二枚。巻き終えたとき、東の空の縁が、わずかに白くなっておりました。

少年は、板に引いた墨の線の真ん中を、親指の爪でこすりました29線の一か所を体一つぶん削って出入り口にすることを、門を切ると言います。削るのは親指の爪で、葬送師の右の親指の爪がいつも黒いのはそのため。爪を切っても、黒は根もとから伸びてきます。。体一つぶんだけ、黒が削れて、板の地が出ました。

「門です。線はここだけ開いています」

少年は碗を取り上げ、鈴を振りました。五体の列が、一体ずつ、その門を跳ねて抜けました。札で押さえた死者も、そのあとについて跳ねました。六体は、揃っておりました。押さえた一体は揃いすぎるほどに揃い、そのくせ、少年の鈴より一拍遅れて板を鳴らしました。

「次の町で、棺に入れます」と少年は申しました。「棺の借り賃は、私の取り分から出します30義荘の棺の借り賃は一晩八百文。潜りの葬送師の一夜の手当てはおよそ五百文なので、棺を一晩借りれば一夜半ぶんの取り分が消えます。それでも棺に入れるのは、押さえの札は揺さぶり一つで外れ、次の霧の夜まではもたないからです。同じ場面 → 鶴の胸。それで足りればいいのですが」

一行は向こう岸へ渡りきり、霧の中の山道へ入ってゆきました。鈴の音は、しばらくは聞こえておりましたが、やがて谷の水の音に紛れて、分からなくなりました。道服の男は、とうとう戻って参りませんでした。

燕児は一人で、宿場の側へ橋を戻りました。板の上には、墨の線が一本、真ん中を削られて残っておりました。燕児はそれを跨ぎ、少し考えてから、跨いだ足を戻して、削られた門の方を通りました。

その日の昼、宿場の広場で、燕児はいつものように綱を渡りました。髪は、麻の紐で結んでおりました。客は手を打ち、銭を投げ、犬はおとなしく伏せておりました。綱の真ん中で、燕児は一度だけ立ち止まり、谷の向こうの山を見ました。

山のどこかで、赤い紐を足に結んだ人が、今ごろは宿の戸の陰に立って、夜を待っているのでございましょう。その人の家まで、燕児の紐は、燕児の知らない道を、跳ねて帰ってゆくのでございます。

座頭が下から咳払いをいたしました。燕児は綱の上で、谷風の拍を一つ待ってから、また歩きだしました。

この話は、研究所の設定をもとにした創作で、史実ではありません(短編集について)。