研究所の創作 短編集
揃いすぎる列
清の中ごろ / 湘西の山の関所に近い義荘
つながる話 鶴の胸(関の手前の義荘で、四体の列に紛れた、墓から掘り出された一体を見破る)・一度きりの雷(掘り出された古い屍を、雷で弱らせて封じる)この世界の基本 死者と屍・育つ・鈴と拍・封・香・息と足の裏
本文の ◦ の印には、この世界の基本の短い説明が付いています。小さな番号は欄外解説で、その場面の決まりの細部や、ほかの話とのつながりを説明します。画面が狭いときは、印や番号を押すと開きます。この世界の基本
湘西(しょうせい)の山の奥、関所から坂を一つ下ったところに、古い義荘(ぎそう)1関所に近い山の義荘は、開門を待つ一行の宿を兼ねます。関は卯の刻に開くので、一行は夜半に着いて、庭で夜明けを待つ。同じ場面 → 鶴の胸がございました。瓦は苔に覆われ、門の脇には、柩(ひつぎ)を載せる板の台が雨ざらしになっております。番をしているのは岳(がく)という老婆で、孫娘の阿梅(あばい)と二人、奥の小部屋に寝起きしておりました。
秋の暮れ方、その門を二人の旅の者がくぐりました。先に立つのは女の葬送師2葬送師は年寄りの呼び名で呼ばれ、女なら婆と呼ばれます。三十前の女の葬送師は呼び名に困るので、客は名で呼ぶ。名で呼ばれるうちは、まだ若いと見られているということです。同じ場面 → 揃わない列で、名を蘅(こう)と申します。年は三十に届くかどうか。肩の包みには、真鍮の鈴この世界では葬送師が鈴を鳴らすと、魂の残る死者は呼びかけに応えて自分で跳ぶ。鈴と足音が刻むリズムが「拍」。足音で鈴に応えるのが「返り」で、返りが夜ごとに遅れてゆけば、魄が強まった印。基本 → 鈴と拍と墨斗(すみつぼ)と、柳の籠に収めた碗が入っておりました。後ろの若い道士は凌(りょう)といい、札の束を懐に、雷撃木の小さな令牌を腰に下げております。
二人は、山向こうの三つの村に頼まれて来たのでございました。ひと月のうちに、五つの古い墓があばかれたのです。棺は空で、中の主も、主に添えた玉や銀も見えません。村々は銭を寄せ合いましたが、集まったのは、盗んだ者を捕え3墓から出た屍の帰る先は元の墓なので、道は短い。ただ魂の無い屍は歩かせられず、封じた棺を担ぐほかなく、担ぎ手は一人一日二百文です。五つの棺に四人ずつなら、一日で四貫。村々が先に集めたのは、その担ぎ手の代を除いた分でした。この決まりの要 → 封の家、屍この世界では死んだ人には、心にあたる魂(こん)と、体に残る魄(はく)がある。魂が残るうちは「死者」で、鈴で呼べば応えて歩く。魂が抜けて魄だけになると「屍」で、人を襲う。基本 → 死者と屍(しかばね)を封この世界ではすぐには送れない屍を、墨の線と札で蔵や棺に閉じ込めておくのが「封」。屍は雷でも火でも滅ぼせず、弱らせることしかできない。だから弱らせて封じ、銭がそろってから送る。基本 → 封じるまでの代でございました。元の墓へ還す人夫の代は、これから集めることになっております。
「今夜、この前の道を通ります」と蘅は申しました。「弔いの一行の顔をして」
岳婆は黙って、土間の棺台に並ぶ棺の蓋を数えました。空いた棺は五つ4山の義荘の備え付けの空き棺は、ふつう二つか三つです。関に近い義荘だけは、関で止められた一行の死者を入れるために五つ六つ備える。空き棺は棺台の上で蓋を指一本ぶんずらし、中に湿りをこもらせません。同じ場面 → 鶴の胸。義荘の香この世界では死者は飯を食べず、香の煙を糧にする。煙は魂の残る死者の方へ折れて吸われ、吸う者がいなければまっすぐ昇る。香が絶えると、魂が早く薄れる。基本 → 香は義荘が焚きますが、棺の借り賃は別でございます。蘅は銭を払い、その場で墨斗の糸を引き出しました。
土間の戸口から奥の棺まで、墨の線が一本ずつ、斜めに打たれてゆきました5線に向きは無いので、斜めに打てば、線に沿って奥へ送る道になります。屍は線を越えられず、線に沿って動くしかない。戸口から奥へ狭まるように打つこの線を、追い込みの線と呼びます。同じ場面 → 一度きりの雷・匂いの関。奥の小部屋の敷居にも一本。外の庭から土間へ、入るのはたやすく、横へは逸れられぬ形でございます。線の端ごとに、凌が札を留めました。一人で打った線は、十分には効きません。墨と札とが揃って、はじめて線になるのでございます。

蘅は碗を柳の籠から出し、戸の内の板棚に据えました。
それから阿梅を呼んで、ひとつ教えました。
「何か入ってきたら、息を止めこの世界では屍は、生きた人の陽気(体の温み・気配)で人を見つける。陽気がいちばん多く出るのは息、次が足の裏。息を止めて足の裏を屍に向けなければ、屍にはそこにいる人が見えない。基本 → 息と足の裏なさい。足は寝台の上に揃えて、戸に向けないこと」
阿梅はうなずき、その足をじっと見下ろしておりました。
夜半を少し過ぎたころでございます。坂の上から、鈴の音が降りてまいりました。
大きな鈴でした。音は太く、山の闇を押し分けるように鳴ります。その後ろから、足音が聞こえました。
とん。
ひとつの音でございました6土の道の足音は、とん、と低く鈍く鳴ります。関の坂は土なので、五つの足が一つに重なれば、太鼓を一つ打ったように聞こえる。石畳の町なら、こつ、と硬く鳴るところです。同じ場面 → 揃わない列。五つの足が土を打っているのに、音はひとつしかしないのです。
門の燈の輪の中へ、一行が入ってまいりました。先頭で鈴を振るのは、肩の厚い男で、瞿(く)と名乗りました。左手には符水(ふすい)の碗を提げております7碗は提げて持つものではありません。掌に載せ、親指を縁に添えて、水面が拍を映すよう平らに保つ。提げた碗の水面は歩くたびに傾き、拍を映しません。碗を提げる葬送師は、碗を見ていない葬送師です。基本 → 碗の符水同じ場面 → 揃わない列。しんがりの痩せた道士は卞(べん)。腰の令牌が、燈を受けて白く光りました。
あいだの五体は、そろって白い麻の上掛けを着ておりました。額に貼った札。足首には麻の紐。はいているのは、土の色も付かぬ新しい草鞋8遠くから来た一行なら、宵に替えた草鞋も夜半には土の色が付きます。夜半を過ぎて真新しい草鞋は、近くから来た一行か、門の手前で履き替えた一行。墓から出したものを連れる一行は、墓の土の付いた草鞋を嫌って履き替えます。同じ場面 → 匂いの関(わらじ)でございます。跳ねるたび、五つの影がいっせいに縮み、いっせいに伸びました。一本の指で、五つの駒を動かしているようでございました。
香の匂いが、一行より先に門へ届きました。夜ごとに焚く香にしては、濃すぎる匂い9一人一夜三本の香なら、匂いは一行と一緒に門へ着きます。一行より先に門へ届くほど濃いのは、何かを隠す焚き方。墓から出た屍の土と黴の匂いは、香でなければ消せません。同じ場面 → 匂いの関でございます。蘅はその下に、もう一つの匂いを嗅ぎ分けました。雨を吸った古い土と、黴(かび)の来た絹の匂い10墓から出た古い屍は、腐りの匂いがしません。湿った土と古い絹の黴の匂いで、年を経た墓ほど土の匂いが勝つ。春に死んだ者なら、まだ土より、新しい絹と香の匂いの方が強いはずです。同じ場面 → 一度きりの雷。春に死んだ者の匂いではございません。
「関が開くまで、庭を借りたい」と瞿が言いました。
岳婆が答えるより先に、蘅が燈の下へ出ました。
「銘旌(めいせい)を拝見できますか11銘旌は一行の手形です。死者ごとに家や仲間が作るので、紅い布の色も白い字の手も一枚ずつ違う。五枚が同じ布、同じ筆の運びなら、一人の手が一晩で書いたものです。記録 → 旅の死者を故郷へ帰す」
瞿は細い旗を五枚、畳んだまま差し出しました。どれも新しい紅い布で、白い字の筆の運びまで同じでございます。蘅は一枚目を開き、それから五体目の前に立ちました。上掛けの襟元から、下の衣がのぞいております。緋(ひ)の色でした12唐の世の官服は紫・緋・緑・青の色で位を分け、緋は四品と五品の色でした。補子の刺繍で位を示すのは明から。清の世に、胸に補子の無い緋の袍が歩いていれば、弔いの列でなく墓から出したものです。同じ場面 → 鶴の胸。胸にも背にも文様が無く、色だけで位を示す緋の袍は、唐や宋の世の型でございます。
「この方は、いつお亡くなりに」
「この春だ。古い衣を着せる家もある」
蘅は答えず、目を閉じました13足音を聞き分けるときは目を閉じます。目で揃いを見ていると、耳が目に引きずられて、割れた音も一つに聞こえるからです。見習いは雨垂れの軒下で目を閉じ、落ちる筋の数を当てる稽古をします。。
瞿が鈴を振ります。五体が跳ねます。
とん。
蘅の耳に届いたのは、やはり一つの音でございました。魂の残る死者が五人いれば、どれほど揃って見えても、足の着く音は五つに割れます。一つにしか聞こえぬのは、一本の指で動かされる駒の音でございました。
蘅は目を開け、卞を見ました。卞は目を逸らしました。
「札で押しておられますね」と蘅は申しました。「魂の無い方を、揃えて」
瞿の顔から笑いが消えました。
「女の葬送師が、何の言いがかりだ」
そう言って瞿は、大きく鈴を振りました。一行を門の外へ返し、関への道を上がるつもりでございましょう。
そのとき蘅も、自分の鈴を取り出しました。
小さな鈴でした。舌(ぜつ)は長年に擦れて細くなっております。蘅はそれを、瞿の鈴のすぐ後ろで、半拍だけ遅らせて鳴らしました14相手の鈴の半拍後ろに小さな音を置く打ち方を、影打ちと呼びます。札で押された列は拍の頭しか持たないので、影の音で足の着く所が二つに割れる。魂の残る列には効きません。同じ場面 → 匂いの関・吊り橋の拍。
ちりん。
瞿の鈴がまた鳴ります。蘅の鈴が、その影を踏むように鳴ります。
五体が跳ねました。着地の音が、ふたつに割れました。
卞が札の束を握り、指で空に字を切りました。押す力を強めたのでございます。瞿は鈴を速めました。音は大きくなり、門の瓦がかすかに震えました。
蘅は鈴を速めませんでした。強くもいたしません。ただ、瞿の音と音とのあいだの、いちばん静かなところを選んで、一つずつ置いてゆきました。大きな音は、隙間を持っております。その隙間に置かれた小さな音は、大きな音よりも、よく通るのでございます。
とん。とととん。
五つの足音が、ばらばらに降りました。三体目の草鞋が遅れ、四体目は早すぎました。札の端が、額の上でめくれて浮きました。

瞿は歯を食いしばり、鈴を振りながら左手の碗を振り上げました。蘅の鈴を叩き落とそうとしたのでございましょう。凌がその腕に取り付きました。碗は瞿の手を離れ、庭の土に落ちて割れました15こぼれても土に何も起こらないなら、碗の中身はただの水です。本物の符水なら、こぼれた土に灰の色の輪が残る。潜り(正規の組でない、安い葬送師)の一行でも碗だけは本物を持つので、空の碗の一行は潜りでさえありません。基本 → 銭同じ場面 → 揃わない列。
水が土に吸われてゆきます。
何も起こりませんでした。五体は倒れも、沈みもいたしません。符水の碗は、はじめから見せかけだったのでございます。岳婆が、門の扉の陰で小さく息を呑みました。
そのとき、五体目の札が、はらりと外れました。
押さえるだけの札は、揺さぶり一つで外れるのでございます。蘅は、それを知っておりました。知っていて、拍を奪ったのでございます。
外れた札が土に落ちるより早く、五体目の首が回りました。
いちばん近くにいたのは、札の束を握った卞でございました。
卞は悲鳴を上げて退きました。五体目が跳ねます。一度。二度。三度目に、足首の麻紐が、ぷつりと切れました16掛け直した紐は術の結びでないので、跳ねる力に長くはもちません。切れるのは踏み切りの力が結び目に溜まったころで、たいてい跳ねはじめてから数度のうち。切れた紐の端は、刃で切ったように揃わず、毛羽立ちます。同じ場面 → 匂いの関。
古い土の匂いが、庭いっぱいに広がりました。
紐の解けた足が、土を蹴りました。跳ねるのではございません。走ったのです。膝の曲がる屍でございました。千年近く眠っていた体が、掘り出されて外の気に触れ、眠っていた年月の分だけ強くなっていた17墓をあばく者は、古い屍ほど足を固く結び、札で押さえて急いで運びます。掘り出した夜のうちに走りだすことを、薄々知っているからです。千年の屍を連れて関の手前で一晩を越すのは、その勘定を欠いた一行でした。同じ場面 → 一度きりの雷記録 → 墓を開けると屍は起きるのかこの世界では生まれた土地の土に葬られなかった死者は、年とともに魂が抜け、体に残る魄が強くなって「育つ」。跳ぶだけの体が走り、低く滑り、やがて宙に浮くまでになる。生まれた土でなければ眠らない。基本 → 育つのでございます。
卞は令牌を突き出し、何か唱えました。何も起こりません。令牌はただの松の板で18松の令牌は、爪を立てれば跡が付き、握れば脂の匂いがします。雷撃木の棗は赤く重く、爪を跳ね返す。安物の道士が松を選ぶのは、棗より軽く、一日腰に下げて歩いても疲れないからです。同じ場面 → 反る札、雷の気など、どこにもございませんでした。
残りの四体も、次々に札を落としはじめました。
瞿は鈴を投げ捨て、懐から自分の墨斗を出しました。門の柱の根から塀の根へ、自分の立つ隅を囲うように19線の内に自分を囲えば、屍は入れません。ただし道士の札が端に留まらない線は、一息もつのがやっとです。屍が胸で押し続ければ墨が焼け、押された所から跡が掠れていく。一人の線は、逃げる時を稼ぐだけです。同じ場面 → 匂いの関、地に一本、二本と線を弾きます。卞のことは見もいたしません。囲いの中へは、屍は入れぬはずでございました。
蘅は庭の真ん中に立ち、息を大きく吸いました。
それから、吐きました。わざと、長く、屍たちの方へ20吐く息で屍を呼ぶ手は、線の内へ誘い込むときに使います。長く吐いて首を向けさせ、下がりながらもう一度吐く。誘い込んだら、あとは息を殺して待つ。息を長く止められる者にしか使えない手です。同じ場面 → 匂いの関記録 → 『聊齋志異』の「尸變」を読む。
四体の首が、いっせいにこちらを向きました。蘅はもう一度吐き、あとずさりに土間の戸口へ下がります。四体は跳ねてまいりました。紐がまだ残っているので、跳ねるしかないのです。一跳ねごとに、揃いは崩れてゆきました。
戸口の内に入ると、蘅は板棚に飛び上がり、息を止めました。膝を抱え、足の裏を壁へ向けます。
四体が土間へなだれこみました。斜めの墨線が、それを奥へ奥へと送ります。線に触れた屍の袖から、焦げたような匂いが立ちました21墨の線に触れた屍の袖は、焦げた匂いを立てます。鶏の血と朱を合わせた墨ほど強く匂い、ただの墨ではほとんど匂わない。匂いの立つ線は効いている線だと、葬送師は鼻で確かめます。同じ場面 → 封の家。横へは出られません。奥の小部屋の敷居にも線がございます。阿梅の寝台の上で、小さな体が石のように固まっているのが、戸の隙間から見えました。
四体は、息の絶えた土間の中で、首を左右に振っておりました。
蘅は棚の上で、胸が裂けそうになるまで耐えました22息を止める稽古は、葬送師の見習いの一年目から始まります。線香の灰が一度落ちるまで止められれば一人前。蘅の師は、灰が落ちるのを待たずに指で弾いたそうです。。やがて、音を立てずに棚から戸口へ降り、最後の一本を、戸口の敷居に弾きました。凌が走り寄り、その端に札を留めます。これで、中のものは出られません。
そこで初めて、蘅は息を吐きました。
庭では、五体目が瞿の囲いの前に立っておりました。
瞿の線には、札が一枚も留めてございません。五体目は線の前でしばらく揺れておりましたが、やがて胸で線を押しました。墨が、ぢ、と鳴ります。袖が焦げます。それでも押します。胸の当たったところから、墨の跡が掠れてゆきました。
線が切れました。
瞿は後ろの塀に背をつけました。塀は高く、屍には越えられません。けれど瞿もまた、塀の前から動けないのでございます。五体目の指が、瞿の襟をつかみました。瞿の顔から、みるみる血の気が引いてゆきました。
「凌」
蘅が呼ぶより早く、若い道士は左の掌に筆を走らせておりました。雷の字でございます。五本の指をその上に合わせ、拳を固めました。凌はその拳を、額に一度当てました。
五体目の足が、土から離れかけておりました。草鞋の底と土とのあいだに、燈の光が細く差し込んでおります23滑る段に入った屍は、まず足の裏が地から指一本ぶん浮きます。草鞋の底に光が差すのが最初の兆しで、浮くほど気で軽くなり、墨の線も越えやすくなります。同じ場面 → 一度きりの雷記録 → 屍の段階を読む。
凌は屍の背へ踏み込み、拳を開きました。
山が、一度だけ鳴りました。
緋の袍の背が焦げ、屍は土の上に崩れ落ちました。凌の掌は赤く腫れ、指がしばらく開きません24雷を放った掌は、赤く腫れて指が開かなくなります。腫れた手でも札は書けますが、字が太る。太った字の札は効きが短いので、雷の夜に要る札は、日のあるうちに書いておくのが用心です。同じ場面 → 一度きりの雷記録 → 茅山の道士と雷の法を読む。
崩れた屍は、それでもまだ瞿の襟を握っておりました。指の節が、ゆっくりと動いております。蘅は膝をつき、指を一本ずつ、襟からはがしてゆきました。一本はがすたびに、瞿の喉が鳴りました。
その間に、卞が逃げようとしておりました。
背には、五つの墓から取った品の包みがございます。門の外まで走りかけ、ふと足を止めると、門の脇の灯油の壺を抱え上げました。
「焼いてしまえ」と卞は叫びました。「焼けば、何も残らん」
蘅は顔を上げました。
「千年待った人を、ここで迷わせるおつもりですか25習わしの理由焼けば魄は灰の下に残り、どの土にも帰れません。千年眠っていた人を、掘り出した上に灰にすれば、帰る墓があるのに帰れない魄が一つ増える。蘅が卞を止めた言葉は、情でなく、火のあとの始末を知る者の言葉でした。この決まりの要 → 封の家」と、静かな声で申しました。
卞の手が止まりました。止まったのは、言葉のためではなかったかもしれません。掌を腫らした凌が、横から体ごとぶつかったのでございます。壺は転がり、油は燈に届かぬうちに土へ染みました。二人はもつれて倒れ、卞の懐から、あの松の令牌が落ちて、音もなく割れました。岳婆が門の脇の棒を持って出て、卞の背を押さえました。
それから夜明けまでは、長い仕事でございました。
蘅は土間の前に座り、鈴を鳴らし続けました26鈴は右手のもので、夜明けまで鳴らし続けても左へは持ち替えません。腕が上がらなくなれば、肘を膝に載せ、手首だけで小さく打つ。夜通し打った葬送師の右の手首には、翌日、膏薬の匂いがします。同じ場面 → 匂いの関。一打ごとに、中のものの動きを拍で縛ってゆくのでございます。縛られた屍は奥の棺の方へ寄り、少しずつ動きが鈍くなってゆきました。凌は腫れた手で札を書き、一体ずつ、額に結びました。札の効いた体を、蘅と岳婆とで棺へ横たえます。蓋を閉じると、蘅が棺の蓋と四方と底に墨を打ち、凌が封の札を留めました。
最後に、庭の五体目を土間へ運びました。緋の袍は背が焼けて、裂け目から古い骨が白くのぞいております。この一体の蓋を閉じるとき、中で、こん、と一つ、板を打つ音がいたしました。蘅は鈴を一度鳴らし、返りを待ちました。返りは遅く、しかし確かに、ございました。
東の空が白むころ、夜半の雷を聞いた関の番卒たちが、坂を下りてまいりました。番卒たちは、塀の前で座りこむ瞿と、縄を掛けられた卞を見つけました。墓をあばいた罪は重く、二人は関へ引かれてゆきました。瞿はうつむいたまま一度も振り返りませんでしたが、卞は門を出るとき、土間の方をちらりと見ました。
品の包みは、蘅の前で解かれました。玉の蝉(せみ)、銀の簪(かんざし)、錆びた小刀、薄い銅の鏡。蘅は一つずつ手に取り、五つの棺の衣と見比べては、それぞれの蓋の上に置いてゆきました。簪は、髪の長かった三体目へ。蝉は、口に入れて葬られたであろう緋の袍の人へ。どの墓から出たかは、袖に残った土の色27墓の土は、山ごと谷ごとに色が違います。袖の土を洗っても落ちない所で読めば、どの谷の墓から出たかが分かります。同じ場面 → 鶴の胸と、衣の世とで分かるのでございます。蘅は棺ごとに、帰る墓の在りかを紙に書いて貼りました。

魂の無い屍は、歩かせて送ることはできません。封じたまま、棺で担いで帰すほかないのです。村々の銭で足りるのは、今夜の分まででございました。担ぎ手の代が集まるまで、五つの棺はこの義荘に留まります。岳婆はしばらく帳面を眺めておりましたが、やがて、棺の借り賃を半分にする28義荘の番人は、棺の値を下げないことで知られます。借り賃は一つ一晩八百文、五つで四貫。半分でも一晩二貫、担ぎ手の代が集まるまで十日なら二十貫です。岳婆は帳面を眺めたうえで、半分と言いました。同じ場面 → 鶴の胸と申しました。香は、義荘がいつものとおりに焚く29習わしの理由魂の無い屍に香は要りません。それでも義荘が朝夕に焚くのは、預かった者を数に入れているという印です。焚かなければ、帳面の五つの棺はただの荷になる。、とも申しました。
日が高くなってから、蘅は土間に入り、五つの棺の前に立ちました。
鈴を、一度だけ鳴らします。
返りが来ました。最初は手前の棺から、かすかに。少し間を置いて、奥の棺から。三つ目はさらに遅く、四つ目は、ほとんど聞こえぬほど遠く。緋の袍の棺は、いちばん最後でございました。
五つの返りは、一つも重なりませんでした30魂の抜けた屍の棺からも、魄が強まれば、鈴に応えて板を打つ音が返ります。その返りは、屍ごとに遅れ方が違い、遅いほど魄が強い。返りの順を帳面に書いておけば、次に封を引き直すとき、どの棺から手を付ければよいかが分かります。同じ場面 → 封の家。
凌が戸口に立ち、腫れの引かぬ手をさすっておりました。阿梅はその後ろで、まだ足を揃えたまま、寝台の縁に腰かけております。
蘅は鈴を包みにしまいました。土間には、義荘の香が細く立ちのぼっておりました。その煙は、どの棺へも寄らず、ただ、まっすぐに昇ってゆくのでございました。吸う者の無い煙は、そう昇るのでございます。
この話は、研究所の設定をもとにした創作で、史実ではありません(短編集について)。